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万福寺

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 大田区立郷土博物館を見学してから、周辺の馬込地区を少し歩くことにした。まず向かったのは古刹万福寺である。博物館の東側にある。

 古風な門構えの手前に、寺の縁起を書いた案内板があった。それによると、万福寺は鎌倉時代初期の建久年間(1190年~1199年)に、梶原景時が源頼朝の命によって梶原氏相伝の阿弥陀如来三尊像を本尊として大井丸山というところに建立したのが起源とされている。そして鎌倉時代後期の元応二年(1320)に火災に遭い、梶原景時の墓がある当地へ移され再建されたという。それから後の室町時代後期になって、寺が荒廃していたのを、鎌倉の禅僧明堂文竜が天正三年(1575)に再興し、密教寺院から曹洞宗に改めたそうだ。

 以上が案内板による縁起であるが、寺に関わりのあるとされる梶原氏は、鎌倉幕府の御家人の一族ではなく、戦国時代にこの地に拠を構えた後北条氏の家臣であるとする説もある。後世になって戦国時代の梶原氏と鎌倉時代の梶原氏を取り違えて伝わったということである。そうするとだいぶ話は変わってくるが、境内からは室町時代の年号を持つ板碑が出土しているということであるから、中世よりここに寺院のあったことは間違いないようである。

 案内板から門を挟んだ反対側には馬の銅像があった。磨墨(するすみ)という馬の銅像である。磨墨は源頼朝の名馬であったという。この馬込の産と伝えられるものだそうだ。その磨墨は、恩賞として梶原景時の子景季が賜ったとされている。頼朝の名馬といえばもう一頭は池月で、これは千束八幡神社を訪れたときにその言い伝えを目にしたものである。池月は頼朝が千束に陣を布いたときに得た馬とされている。その池月は佐々木高綱に与えられ、景季と高綱は宇治川の先陣争いを演じることになる。これらの話から、荏原は馬の名産地であったと言えるだろう。馬込という地名も「馬を込める(籠める)」から来ているといい、牧のあったことが窺える。
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 さて、それとともに興味深いのが戦国時代の梶原氏である。郷土博物館で入手した大田区教育委員会発行の冊子「大田の史跡めぐり<増補改訂版>」によると、戦国時代の馬込には、梶原氏が拠とする中世城郭があったという。範囲を見ると、この万福寺も城の中に入っていることになる。寺は城内の宗教施設であったのだろうか。

 城跡の範囲のうち、郷土博物館のある西側の部分がかつて根古屋とよばれ、城主の館跡と伝えられているそうだ。また、城の構えは周囲が急崖で、周辺の谷に沼を配し、敵の侵攻に備えたという。私は、ジメジメした中世馬込の様子を思い浮かべた。

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by ebara_explorer | 2007-11-22 22:40 | 寺院
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