太子堂八幡神社

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 駒留八幡神社から、環七通りが世田谷通りと交差する若林を過ぎ北東へ向かい、烏山川の流れを過ぎると、八幡神社がもう一つある。太子堂八幡神社という。太子堂はこの辺りの地名にもなっているが、これは円泉寺という寺に聖徳太子が祀られているところから来ている。その円泉寺は、かつて太子堂八幡神社の別当寺でもあったようだ。

 住宅街の中にある太子堂八幡神社は、環七通りからも世田谷通りからも離れており、静かなところであった。また、境内の木々は背が高く、歴史を感じさせる杜であった。

 本殿は、駒留八幡神社のものよりも、さらにどっしりとした構えであるように思われた。
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 そして本殿脇にはやはり、稲荷神社が祀られていた。
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 さて、この太子堂八幡神社の由緒であるが、本殿脇に立派な案内板があった。それによると、先の円泉寺開基の縁起には、文禄年間(1592~96)に創祀されたとあるという。しかし、それよりはるか以前の平安時代、源頼義・義家父子が安倍氏征討のため陸奥へ向かう途中にこの地の八幡神社に武運を祈ったという伝えもあるそうだ。つまり、そのときにはすでに八幡神がこの地に勧請され、祀られていたということである。

 ところで、源頼義・義家父子に関わる言い伝えは、別の八幡神社にも出てきた。世田谷区尾山台の宇佐神社と、大田区東六郷の六郷神社である。いずれも安倍氏征討に向かう源頼義・義家父子が武運を祈ったというものである。

 両社にこの世田谷区太子堂の太子堂八幡神社という三点を地図上に思い浮かべると、いったい源頼義・義家父子の行軍はどのような道を辿ったのか、皆目見当が付かなくなる。本当に源頼義・義家父子は、それぞれの場所を通ったのだろうか。

 ただ、太子堂八幡神社の言い伝えには続きがある。この太子堂五丁目付近の旧太子堂上本村一二一~一二二番地を土器塚と呼ぶそうだが、そこは源頼義・義家父子が行軍の折、軍勢に命じて休憩を取りここで酒宴を張った後、土器(かわらけ)を埋めたことに由来するという。また、土器塚に続く塚を同勢山と呼ぶそうだが、これは同勢を憩わせた名残であるという。

 そのような言い伝えを読むと、いかにもここを源頼義・義家父子の軍が通り過ぎたように感じられる。しかも、神社西側の道は鎌倉道と呼ばれているそうだ。確かにその道を北へ辿って行くと現在でも通りの名が「鎌倉通り」となっていて、下北沢方面へ通じている。これは鎌倉時代になってから、鎌倉街道の一つとなっていたことがその由来と思われるが、鎌倉時代以前から通じていたとも考えられる。とにかく古い道であることは確かだ。

 源頼義・義家父子がここを通ったという確証は持てないが、その頃よりここに古道があり神様が祀られていたというところまでは、大いに考えられることである。



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by ebara_explorer | 2008-03-18 15:31 | 八幡宮めぐり
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