東京荏原歴史物語資料館
2009-02-22T18:38:22+09:00
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東京荏原 史跡めぐりの旅
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品川神社富士塚
http://ebarahist.exblog.jp/9672668/
2009-02-22T18:37:15+09:00
2009-02-22T18:38:22+09:00
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富士信仰
京浜急行新馬場駅前にある品川神社は、鎌倉時代初めの文治三年(1187)に源頼朝が安房国洲崎大明神を勧請したものと伝える、由緒ある社である。
この神社で注目すべき点は、富士塚が昔のままの形で残っているということである。富士塚とは、富士信仰において富士山を遥拝するためのミニチュアの富士山のことで、ここ品川神社の富士塚は、明治二年(1869)に北品川の丸嘉講約三百人によって造られた後、大正十一年(1922)に第一京浜国道の建設のため一部が削られて石垣となってしまっているが、江戸時代からの富士信仰の形をそのまま伝えるものであろう。これは荏原の中でも珍しいことだ。
富士塚の入口は、本殿へ続く石段の途中にある。
鳥居をくぐると「登山道」と書かれた石段が続く。石段の脇には「一合目」「二合目」「三合目」という石柱が建っている。富士塚という「山」に上って行く気分だ。
やがて右手に、石積みの塚の全貌が現れてくる。積み上げられた石の一つ一つから、富士信仰に対する想いが伝わってくる。石積みの中には富士講碑がいくつも建っていて、奉納した人々の名前が刻まれている。富士講はいくつもあったのだろうか。
途中の「五合目」と書かれたところから、石段が急で狭くなってくる。そこを慎重に上って行くと、富士塚の頂上に出る。頂上は2、3メートル四方あって、けっこう広い。ここからの眺めはなかなかである。
ただ、富士山の見えるべき西方は、木立とビルに視界を遮られ、見通しが悪かった。かつてはきっと富士山がきれいに望めたことであろう。富士塚から富士山を遥拝してみたかったものである。
初めて富士塚に上ってみたが、富士信仰への想いがひしひしと伝わってくる史跡であった。こんな塚が、かつては荏原のあちこちにあったのかと思うと、面白く感じられた。
この品川神社の富士塚では、現在も丸嘉講が毎年七月一日前後に「山開き行事」を行っているという。塚のふもとの浅間神社に、行衣という白装束で集まり、富士塚に登山して遥拝を行うそうだ。そういう意味では、今でも生きた「富士塚」として、貴重な史跡であると言える。
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広重「名所江戸百景」の世界
http://ebarahist.exblog.jp/9391224/
2009-01-11T18:14:00+09:00
2009-02-22T00:25:14+09:00
2009-01-11T18:14:22+09:00
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名所江戸百景
川崎市市民ミュージアムで開かれている「広重「名所江戸百景」の世界」展に行ってきた。これは、歌川広重の描いた『名所江戸百景』全百二十点を一堂に取り揃えた展覧会である。
この展覧会で特徴的なことは『名所江戸百景』の展示順である。通常、四季の別や制作年代順に並べられることの多い『名所江戸百景』であるが、ここでは地域別に並べられていた。それも現代の行政区画に沿った分け方である。これは「庶民から見た江戸の名所とその広がりという観点から、御府内からその外へと、名所の拡大に視点をおいて」いるためであるという。
そのため、私が興味を抱いている荏原の中の『名所江戸百景』を探すのは容易であった。すなわち、品川区の四景、大田区の四景、目黒区の五景がこれに当たる。百二十点すべてを詳細に見学するのは大変であるため、私はこの十三景を特にしっかりと眺めることにした。
ただ、厳密に言うと荏原は江戸ではない。そのことは、展示の最初に示してあった「江戸府内朱引図」からも窺えることである。それを見ると、現在の品川区・目黒区・大田区・世田谷区は江戸の範囲から外れている。品川宿も江戸の外ということになっている。それでも、十三景も荏原の地が描かれているということは『名所江戸百景』が実際の江戸よりも広い範囲を対象としていたことがわかる。
さて、まずは品川区の四景をじっくりと眺めた。品川区に当たるのは「品川御殿やま」「月の岬」「品川すさき」「南品川鮫洲海岸」の四景である。このうち、三つには海が描かれている。品川区の四景のポイントはやはり海であると言える。海の描かれていない「品川御殿やま」も、海沿いにある名所として知られているところだ。
ところで、この「品川御殿やま」では、幕末の台場建造のために土砂が削られたところが描かれている。一方の「品川すさき」では、すでにあったはずの台場を描いていないという。これは「品川すさき」を景勝地として描くため、広重が意図的にその存在を消したのだそうだ。二つの絵を対比してみると面白い。
次いで、大田区の四景を眺めた。大田区に当たるのは「蒲田の梅園」「八景坂鎧掛松」「はねたのわたし弁天の社」「千束の池袈裟懸松」の四景である。ここでは梅や松といった木が印象的だ。特に松の名所は二つもある。
また、残りの一つの「はねたのわたし弁天の社」は『名所江戸百景』の南端に当たるという。ここは江戸からかなり外れた位置にあるが、江戸の人たちにも名所として良く知られていたのだろうか。
最後に、目黒区の五景を眺めた。目黒区に当たるのは「目黒新富士」「目黒元不二」「目黒千代が池」「目黒爺々が茶屋」「目黒太鼓橋夕日の岡」の五景である。ここで印象的なのは、やはり富士山の眺めである。五景のうち「目黒新富士」「目黒元不二」「目黒爺々が茶屋」の三景に富士山が描かれている。しかも二箇所には富士塚がある。また、富士山の描かれていない「目黒千代が池」も、高台に上れば富士山の見える名所であったという。目黒の地は、江戸から富士山を見る名所の西端であったと言える。いずれも目黒川東岸の高台からの眺めである。
それから「目黒千代が池」を初めとして「目黒新富士」と「目黒元不二」にも桜が描かれている。この辺りは富士見の名所であると同時に桜の名所であったことも窺える。
残りの一つの「目黒太鼓橋夕日の岡」も目黒川に架かる橋である。目黒川辺りはかろうじて「江戸」と認識されていたということであろうか。ただ、この「目黒太鼓橋夕日の岡」だけは雪景で、目黒区の五景の中でもちょっと異彩を放っている。白い雪の中に流れる藍色の川面が印象的だ。広重の絵では青や藍が特徴的で、海外からも「ヒロシゲブルー」と呼ばれて賞賛されているそうだ。
さて『名所江戸百景』全体を通して見てみると、他の場所に比べて荏原の十三景は寂しい印象があった。品川区の四景からはかろうじて品川宿の賑わいが感じられたが、大田区の四景と目黒区の五景は人も建物もまばらで、何とものどかな様子が窺えた。それが「江戸」における荏原の位置づけなのかもしれないと思った。
この『名所江戸百景』は私が大好きな浮世絵である。何度見ても飽きない。すでに荏原の中の『名所江戸百景』についてはいくつか巡っているが、今年は残りの地についても巡り、十三景を完遂したいと思っている。
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滝王子稲荷神社
http://ebarahist.exblog.jp/9292769/
2008-12-27T17:38:10+09:00
2008-12-27T17:39:07+09:00
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お稲荷様
大井原の水神池と品川歴史館を結ぶ道の途中から少し北へ入ったところに、滝王子稲荷神社というお稲荷様がある。滝王子とは、この辺りの地名のようである。近くの消防署の出張所にもその名が見えた。
滝王子の名は、昔この付近に滝氏という一族が住んでいて、稲荷社と王子権現を祀っていたことに由来するともいわれている。滝王子稲荷神社は、もともと滝氏の屋敷神だったのかもしれない。
社はひっそりした住宅街の中に鎮座していた。ガランとした境内の奥に小さな社殿がある。赤い幟がたくさん奉納されているところがお稲荷様らしい。
境内の片隅には、小さな池もあった。湧水池だそうで、池の真ん中に石が積み上げられていた。これはかつて弁天様が祀られていた名残ではないだろうか。
また、境内には大きな木が一本あった。タブノキというそうで、暖地の海岸に多く見られる種類であるという。この辺りがかつて海に近かったことを示すものではないかと思った。
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大井原の水神池
http://ebarahist.exblog.jp/9280409/
2008-12-25T18:26:23+09:00
2008-12-25T18:27:21+09:00
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水辺
品川歴史館の前から、西へ続く細い道をひたすら行くと、小さな祠と池が見えてくる。湧水の出る池だ。ここもまた、大井の水神社と同じく、台地の末端から湧き出た水である。昔は地域の人が出荷する野菜を洗った「洗い場」だそうで、水は現在も湧き出ている。池の名を「原の水神池」という。
池のほとりに祀られているのは水神社で、農耕や日常生活に欠かせない水を確保し続けたいという願いから、地域の人々が祀ったものであるという。現在の祠は明治十二年(1879)に建てられたものだそうだが、水に対する信仰はそのずっと前からあったのだと思う。
水神社ということは、ここも大井の水神社同様、弁天様とは違う神様が祀られているのだろう。弁天様というと、池の真ん中に祀られていることが多いが、ここは池から少し高くなったところに祠がある。その辺りからも、この祠に祀られている神様は弁天様とは異なることではないかと思う。
水神社の祠の左には、小さな石祠があった。この中には供養塔が納められ、塔には「羽黒山 湯殿山 月山 雷里沢不動尊 子浜弁才天 新井川不動尊」の銘が彫られているという。出羽三山の名前があるのは注目だ。
池の水は清く澄んでいたので、眼病にも効果があるといわれ、人々は眼病が治るとそのお礼に鯉を池に放したそうである。祠の近くに「鯉塚」というものがあったが、その放した鯉を祀ったものであろうか。また、祠の扉の脇には鯉が浮き彫りにされていた。ここの神様が鯉と密接に関わっていることが窺える。
今でも池には鯉がいる。また、亀の姿も見えた。しかし、池の周りには金網が張り巡らされ、水面にはネットが張ってある。かつて「洗い場」だったということは、地域の集会場みたいなところであったのではないだろうか。それが今では、何となく物々しい感じがした。
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大井の井
http://ebarahist.exblog.jp/9234688/
2008-12-18T18:47:07+09:00
2008-12-18T18:48:03+09:00
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水辺
大井の来迎院から住宅地の中の細い道を少し北へ向かって行くと、光福寺という寺がある。創建は延暦元年(782)と伝える古刹だが、ここには大井の井なるものがある。
境内の案内板によれば、これは大井の地名のもとになった井戸であるという。親鸞聖人門下の関東六老僧の一人である了海上人が産湯として使った井戸とされる。
寺伝によると、了海上人の父が子授けを蔵王権現に祈願したところ、妻が懐妊し男子を出産したそうである。これが後の了海上人である。そのとき、この寺の境内に泉が湧き出したので、それを産湯として使い、大井と名付けたということだ。この井戸からは今でも水が湧き出しているという。
これもまた、荏原における水の信仰の一つと言えるのではないだろうか。特に大井という地名のもとになっているということからも、重要である。また、この光福寺の山号も「大井山」となっている。尚、寺の名を光福寺と改めたのは了海上人であり、そのときから浄土真宗になっている。
それから光福寺の境内には、大きなイチョウの木がある。高さ30メートル、幹の周囲6.4メートルで、樹齢は八百年というから、大井の井の話が生まれた頃までさかのぼる木であると言える。かつては海上を行く船が目印にしていたというから、ずいぶん遠くからも見えたのだろう。だが、今は都会の建物の中に埋もれて、海から望むことはきっとできないと思う。
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来迎院石造念仏講供養塔
http://ebarahist.exblog.jp/9220333/
2008-12-16T15:56:36+09:00
2008-12-16T15:57:32+09:00
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石造物
大井の水神社の前の道を西へ向かい、線路下のガードをくぐって坂を上って行くと、左手に来迎院という寺がある。その入り口から道路を挟んだ反対側に、石仏や石塔を納めた堂が三つ並んでいる。来迎院石造念仏講供養塔として、品川区の史跡に登録されているものだ。もともとは来迎院の境内にあったそうだが、道路が拡張されたために今は境内の外へ出る形となっている。
念仏講供養塔とされるのは、一番右側の堂内にある地蔵菩薩像二基と、堂の外にある笠塔婆である。地蔵菩薩像は明暦二年(1657)と万治二年(1659)の造立だそうだ。いずれも江戸時代初期のものである。
地蔵菩薩像と念仏講というと、何となく結び付かないが、そのとなりの笠塔婆を見ると「南無阿弥陀仏」と大きく書かれており、一見して念仏講のものとわかる。いずれも大井村の念仏講が建立したものだという。
ここは品川と池上本門寺を結ぶ池上道(現在の池上通り)から少し入ったところである。だから、この辺りは日蓮宗の影響が強いのではないかと思っていたが、念仏講の熱心な信仰があったようである。また、来迎院の境内にあったということから、来迎院は浄土宗か浄土真宗の寺かと思ったが、今は天台宗の名を掲げる寺院であった。
念仏講供養塔の他にも、ここには二つの堂がある。一番左側の堂には石仏三体と石塔一基が納められ、また中央の堂には庚申塔二基と、不動明王像一体が納められていた。庚申塔はいずれも、延宝(1673-1681)の年号を持つものであった。念仏講供養塔より少し時代が下るものであるが、当時の信仰を伝えるものとしてまた貴重なものであると思う。
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大井の水神社
http://ebarahist.exblog.jp/9143815/
2008-12-05T19:27:27+09:00
2008-12-05T19:28:21+09:00
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水辺
大森駅の東口から北へ向かうと、大井水神公園という公園がある。この公園は、大井町方面へ向かって、線路沿いに細長く連なっている。それが途切れたところに水神社という小さな社がある。
案内板によれば、ここには台地の末端から湧き出した地下水があったそうだ。その水は豊富で、かつて地域の人々が飲み水や農業用水に利用していたため、豊かな水の供給を願って神様が祀られた。それが九頭龍権現であるという。貞享二年(1685)に大井村の桜井伊兵衛・大野忠左衛門が願主となって祀ったのが最初だそうだ。その後、明治時代までは日照りになると村人がここへ集まって雨乞いをしていたと伝えられている。また、歯痛を止めるご利益もあったということだ。
水辺の神といえば、今まで荏原で見てきたのはいずれも弁天様であったが、ここの神様は九頭龍権現というそうだ。初めて聞く名前である。九頭龍といえば、福井の九頭竜川がすぐに思い浮かぶが、何か関係があるのだろうか。
こんもりとした木々に覆われた境内はひんやりとしていた。その真ん中には、水神の池と呼ばれる池がある。品川百景にも選ばれているそうである。池には鯉が泳いでいた。この池と、近くの手水鉢には滔々と水が流れ出ていたが、ここで水が湧き出ていたのは昭和五十年代までのことだそうだから、今は自然の湧水ではないようだ。
境内に本殿を探してみると、隅の方に小さな祠があった。岩をくりぬいた中にすっぽりと納まっている。
また、となりの岩山のてっぺんには「九頭龍大権現」と書かれた石碑が建っていた。その他にも周囲の岩場には石碑の痕跡らしきものがいくつか見られ、信仰の深さを窺わせるものであった。
荏原の中では、ちょっと変わった水辺の信仰であった。
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磐井神社
http://ebarahist.exblog.jp/9102431/
2008-11-30T17:01:43+09:00
2008-11-30T17:02:35+09:00
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八幡宮めぐり
京浜急行大森海岸駅近くに磐井神社という社がある。電車の車窓からも良く見えて、気になる神社ではあった。
この磐井神社は鈴ヶ森八幡宮とも呼ばれた。今でも社の南側を東西に走る通りを八幡通りという。ということはこの社も、私の八幡宮めぐりの一つに加えなければならないということである。
社伝によれば、創祀は敏達天皇二年(573)八月であるという。また、境内の案内板によると『三代実録』の貞観八年(859)に「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあるそうで、また武蔵国の八幡社の総社に定めたという。他に「延喜式神明帳」にもその名があるそうだ。
かなり古い由緒をもつ社であることがわかるが、荏原の他の八幡宮と比べてみると格段に歴史を遡るものである。他の八幡宮が、平安時代中期以降宇佐八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものであることを考えると、果たしてこの神社だけがそんなに古くから八幡宮として存在したのかどうか、疑問の残るところである。
時代は下って戦国時代の永正年中(1504~1521)に兵火で焼失したそうだが、江戸時代になると徳川家将軍の参詣の記録があるようだ。享保十年(1725)には徳川吉宗による造営があったことも知られている。
そうした由緒のある磐井神社であるが、現在の境内を訪れてみると、第一京浜国道と京浜急行の高架線に挟まれて、小ぢんまりとした感じだ。また、車の往来はもちろん、電車も頻繁に通り、なかなか騒々しい場所である。
社殿の北側には稲荷神社、南側には弁財天が鎮座していた。
お稲荷様は海豊稲荷神社という名であった。境内が海に近かったことを窺わせるものである。
弁財天は笠島弁財天という。万葉集に「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつ君が山路越ゆらむ」という歌があるが、ここに出てくる笠島がこの弁財天のことを指しているという説もあるそうだ。今は池の中島に小さな祠が祀られているだけで、ひっそりとしている。かつては海に近かっただろうから、この弁財天も海の神として祀られたものであろうか。
神社には他に、非公開であるが、鈴石・烏石という石があるそうだ。鈴石は打つと鈴のような音がしたことからこの名があり、鈴ヶ森の地名の由来となったと伝えられるものであるが、社伝によれば延暦年間(782~806)に武蔵国司であった石川氏が寄進したもので、神功皇后ゆかりの石であるとされている。これまた古い話である。烏石の方は、烏の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家松下烏石が寄進したものだそうだ。
また、境内を出た歩道のところに「磐井の井戸」というものがある。もともと境内にあったものだが、第一京浜国道が拡幅した際に、境域が狭められ、境内から出る形になってしまったのだという。これは古い井戸で、かつては東海道の旅人に利用され、霊水、薬水と称され古来有名だったそうである。土地の人々によれば、この井戸水を飲んだとき、心が正しければ清水、心が邪ならば塩水になるとの言い伝えがあるそうだ。井戸が神社の名前の由来にもなっているから、弁財天と合わせてこの社は水辺の神であるとも言えるだろう。
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品川歴史館特別展
http://ebarahist.exblog.jp/9017288/
2008-11-19T19:35:00+09:00
2008-11-19T19:30:00+09:00
2008-11-19T19:28:24+09:00
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その他
品川歴史館で開催されている特別展「東京湾と品川-よみがえる中世の港町-」に行って来た。この特別展は、江戸時代の宿場町になる前の品川の様子を、港町という観点から辿るものである。
まず第一会場では、品川の地理的な概観がわかるようになっていた。床に大きな地図が掲げられ、東京湾を取り囲む中世当時の湊が示されている。六浦・神奈川・浅草寺隅田川河口・市川・船橋・木更津・古戸・百首・館山といった場所との連携が窺える。そして、品川は湾のずいぶん奥まったところに位置していることがわかる。
次の第二会場では、港町としての品川の歴史が編年で展示されていた。品川は室町時代にすでに太平洋海運の港湾都市に発展していたが、その湊の起源は、古代武蔵国府の時代に端を発するという。品川は武蔵国の国府津もしくは荏原郡の郡津であったと考えられている。そして、その時代に武蔵国府のあった府中と品川の密接な関係が窺われる。すなわち、多摩川による水運と、陸路の品川道である。調布市では古代品川道の道路遺構が見つかっており、そこでは中世の工房跡と想定される遺構も合わせて確認されているという。この品川道は、千束・雪ヶ谷・等々力・喜多見と荏原の真ん中を東西に横切る形で推定されていた。ひじょうに興味深い道筋である。また、品川と府中の関係は、府中大国魂神社に伝わる「浜下り」という行事が品川の海で行われるところからも辿れるという。この行事は源頼義・義家の奥州征討の際に始まったものとされている。
中世になると品川は、多摩川の流域に土着した大井一族のうち、大井氏・品河氏に支配されるようになったという。鎌倉初期の『曽我物語』や『千葉妙見大縁起絵巻』には「品川宿」の名が見えるが、この宿は大井氏・品河氏の居館を中心とした交通・軍事の要所に設けられたものと考えられている。ちなみに、大井氏は多摩川左岸から立会川流域の大井郷、品河氏は目黒川下流域の品河郷を本貫地としたそうだ。
さらに室町時代になると、港町としての品川の様子がはっきりとわかる史料が出てくる。金沢称名寺に伝わる明徳三年(1392)の『湊船帳』である。これは品川に入津した船の台帳と考えられていて、伊勢方面からの船が出入りしていたこともわかる。ただし、この『湊船帳』をめぐっては、品川を船籍地とする船の台帳とする見方や、品川入津の帆別銭免除の神船を記載したものだとする見方もあるそうだ。帆別銭というのは入港税のことであり、鎌倉府の下で称名寺や鎌倉の寺院の修造に使われたそうだ。これについては別に『帆別銭納帳』という史料もある。
伊勢方面との関係を示すものとしては、遺跡からの出土品もある。この歴史館がある辺りの大井鹿島遺跡では、南伊勢系土器が出土しているそうだ。また、品川には常滑焼の大甕が伝わっている。これはロビーに展示されていたが、実に大きな甕である。
こうした湊としての活動に伴い、室町時代の品川は町としても発展していく様子が展示では描かれていく。当時は、禅宗寺院や浄土・浄土真宗の寺院、日蓮宗の寺院が創建され、また時衆の活動もあった。今に残る妙国寺や法禅寺など品川の有名な寺ができたのもこのときである。
また、都市としての品川の縁辺部にあたる御殿山には霊場ができる。中世において葬送と供養の行われていた御殿山からは大量の板碑や五輪塔・宝篋印塔が出土している。幕末の台場築造のときに見つかったものだ。これらは法禅寺に保管されていて普段は見ることができないが、今回は特別にいくつかがロビーに展示されていた。薄い板碑はさすがに割れているものが多かったが、五輪塔や宝篋印塔はほぼ原型のまま残っていて驚かされる。中世の祈りがひしひしと伝わってくるものだ。出土した板碑には、多摩川下流域に見られる蝶型蓮座板碑と東京湾北寄りに見られる浅草寺型蓮座板碑の両方があるそうで、また宝篋印塔には北関東の特徴を有する部材が含まれているということで、品川における多様な文化の交流が窺えるものであった。
それからこの時代になると、在地領主品河氏が没落し、代わって問などの商人の活躍から有徳人が誕生するようになる。品川で有名な有徳人としては鈴木氏や榎本氏などがいるそうだ。鈴木氏は妙国寺の壇越となり、また文化人としての活動も残しているという。
さらに時代が下ると、宇田川氏や鳥海氏などの町衆の活躍が目立つようになる。そして、戦国時代の後北条氏による支配の頃には、町衆が自立した都市機能を確立していたという。それが江戸時代の宿場町としての発展へとつながっていくことになる。
展示全体からは、品川が港町として多方面とつながりを持っていた様子が立体的に読み取れた。そして、品川にも中世の痕跡が多く残っていることを知ることができた。これから荏原の歴史探訪として、品川を訪れるのが楽しみになってきた。また今回は、久しぶりに自分の好きな中世を中心とした歴史に深く触れることができて、この上ない歓びであった。
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薬師堂富士講碑
http://ebarahist.exblog.jp/8998245/
2008-11-17T15:04:22+09:00
2008-11-17T15:05:11+09:00
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富士信仰
大森駅前の池上通りを蒲田方面へ向かい、大田区立山王会館の信号を右手へ少し入ったところに薬師堂というお堂がある。ここはもと桃雲寺というお寺のあったところだが、今は廃寺となり、薬師堂と若干の境内地が残るだけとなっている。
その薬師堂のすぐ近くに、大きな富士講碑が建っている。天保三年(1832)に新井宿村の富士講中が、食行身禄(伊藤伊兵衛)という人の没後百年を記念して建てたものであるという。食行身禄は、富士講中興の祖といわれる人物である。新井宿村の富士講も指導していたのであろうか。
また、碑の左側には「天下泰平正穀成就村中安全」と刻まれており、村内安全を祈願したものであることがわかる。
碑の中央には「仙元大菩薩」と大きく書かれ、その上に雲のたなびく富士山が描かれている。また「仙元大菩薩」と書かれた左右に行衣を着た猿が描かれているのも面白い。それから、長方形の碑は亀の背中に載る形となっている。この亀には耳がある。それが不思議であった。
碑はとても大きく、目立つものである。このような碑が新井宿村の中にあったということは、村内に富士講という信仰が深く根付いていたことを示すものではないだろうか。
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徳持神社
http://ebarahist.exblog.jp/8916260/
2008-11-07T10:22:33+09:00
2008-11-07T10:23:21+09:00
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八幡宮めぐり
大田区池上に徳持神社という社がある。境内の由緒書きによれば、創建は鎌倉時代の建長年間(1249~1255)だそうで、宇佐八幡宮の分霊を勧請したものであり、御旗山八幡宮と称されていたという。つまり、元を糺せばこの神社は八幡神社であり、私の荏原の八幡宮めぐりの中に入れて良いものだと思う。それにしても御旗山八幡宮とは格好良い名前だ。鎌倉時代だから、土地の武士が勧請したものであろうか。鎌倉時代以降だと、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請する例が多いように思うが、本家の宇佐八幡宮から直接勧請してきたというのは珍しい。
なお、元は現在の池上七丁目辺りに鎮座していたそうだが、明治三十九年(1906)に池上競馬場が作られることとなったとき、現在地に移転することとなり、その後近くの稲荷神社を合祀したことから徳持神社と称するようになったという。
しかし、朱塗りの立派な社殿を見てみると、他の八幡神社でよく見るような様式であった。実際、境内の由緒書きによれば、社殿は八幡造という様式とのことであった。
また、境内の隅には徳持田中稲荷神社というお稲荷様が鎮座していた。これは徳持神社の末社であり、移転に当たって合祀されたものとはまた別のお稲荷様であるようだった。
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八景坂鎧掛松
http://ebarahist.exblog.jp/8844527/
2008-10-28T17:01:42+09:00
2008-10-28T17:02:29+09:00
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名所江戸百景
大森駅の西口を出ると、目の前が池上通りである。この通りは江戸時代には池上道と言われていた。品川から本門寺のある池上まで通じる古道である。かつては東海道の一部であったとも言われている。
駅前の池上通りは坂道になっているが、この坂を八景坂という。昔は相当な急坂で、雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研(やげん)のようになったため、薬研坂と呼ばれていたそうだが、坂上の眺望が良いため名所として知られるようになり、また江戸時代にこの辺りの八景を選んだことから八景坂と呼ばれるようになったようだ。
坂上の眺望は安藤広重の『名所江戸百景』にも描かれている。題して「八景坂鎧掛松」である。荏原にある『名所江戸百景』の一つだ。鎧掛松というのは、八景坂の坂上にあった大きな松のことで、源義家が東征の際に鎧を掛けたことからその名があるという。荏原にある八幡神社創建の由来に度々名前の出てくる源義家だが、この松の名の由来にも登場してきた。
安藤広重の描いた「八景坂鎧掛松」を見ると、形が良く背の高い松の木を手前に配し、背景には、近くに海辺の東海道を見下ろし、遠く海の向こうには房総の山々を望むという画になっている。松のある坂上には茶店らしきものがある。松越しに開ける海の眺望が印象的だ。
現代の八景坂は、大森駅前のごみごみした繁華街で、眺望も何もあったものではない。歩道には自転車があふれ歩きづらい。また、坂はそれほど急ではなく、薬研坂と呼ばれた面影もない。
そんな中、坂の途中にある大森駅西口の向かいに、こんもりとした杜がある。天祖神社である。源義家が戦勝祈願をした社とも伝えられている。木々が鬱蒼としてひっそりとした境内は「八景坂鎧掛松」の描かれた時代の雰囲気を多少なりとも残しているように思われた。
神社の急な石段の途中に、句碑がある。碑には「鎌倉の よより明るし のちの月 景山」という句が刻まれている。
また、裏側には八景坂からの眺望である「笠島夜雨・鮫洲晴嵐・大森暮雪・羽田帰帆・六郷夕照・大蘭落雁・袖浦秋月・池上晩鐘」の八景の名が書かれているという。
往時、急坂を上り切ったときに現れる眺望は、坂を懸命に上って来た人たちにとって疲れを癒すものであっただろう。現代の東京には、そのように眺望が開けるところはないように思う。もっとも、高いビルや塔の展望台に上れば話は別だが、そういうときはたいていエレベータで上がってしまうので、自分の足で上がるという苦労はない。八景坂を上り切ったときの、胸の空くような開放感を味わってみたかったものである。
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子安八幡神社
http://ebarahist.exblog.jp/8763280/
2008-10-15T20:04:47+09:00
2008-10-15T20:05:32+09:00
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八幡宮めぐり
浦守稲荷神社から産業道路に戻ってさらに南下すると、呑川に行き当たる。この川の少し上流に八幡神社が鎮座している。子安八幡神社という。同名の神社は呑川のさらに上流の大田区仲池上にもあった。子安には安産や子の成長を願うような意味があるのだろうか。
こちらの八幡神社は、社伝によれば室町時代の応永年間(1394-1428)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建されたもので、旧下袋村の村社であるという。また江戸時代になると、下袋村と麹屋村を領した代官小泉氏の氏神ともなったそうだ。小泉氏は、初代次太夫吉次が六郷用水を開削したことで知られている。
境内の南側には古い鳥居が残っている。これは安永三年(1774)に、この神社の氏子たちが、小泉氏六代目藤三郎包教の武運長久を祈って奉納したもので、大田区内最古の明神型鳥居であるという。背は低いが、どっしりとした構えに歴史を感じさせる石鳥居であった。
境内にはほかに、末広稲荷というお稲荷様が祀られていた。
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浦守稲荷神社
http://ebarahist.exblog.jp/8699532/
2008-10-02T18:07:43+09:00
2008-10-02T18:08:24+09:00
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お稲荷様
三輪厳島神社から産業道路に沿って南へ下り、森ヶ崎へ向かうバス通りを西へ向かうと、前の浦という交差点に出る。現在ではここから海岸までまだ少し距離があるが、かつてはこの辺りが海岸であったことをうかがわせる地名だ。この前の浦の近くを羽田道という旧道が通っている。東海道から羽田弁天社を結ぶ道筋であったという。その途中にあるのが、浦守稲荷神社である。
面白い名前のお稲荷様だと思った。浦守という名から「浦を守る」という意味合いが浮かんでくる。穴守稲荷神社のいわれに通じるところがあるように思われる。境内の由緒書きによれば、今からおよそ三百年前に創建されたというから江戸時代の中期の頃のことであろう。当時、この辺りは海辺の茅原で、周辺に農業や漁業に営むわずかな人々が住んでいたという。それらの人々が稲荷を祀ったのが起源とされている。その後宝暦年中(1751-1764)になって、前の浦の開拓に熱心であった伊東藤兵衛大人の努力により、神社の設備も整ったそうだ。
明治になると神徳が都内まで広まったそうで、また境内の一隅に白蛇弁天が出現したので、土地の人々はもとより京浜間の信仰する者が「弥栄弁天講」を作り、年々団体で参拝するようになったということである。稲荷信仰と弁天信仰が密接に関わっていると言える神社ではないだろうか。境内の一隅には、紅い鳥居のお稲荷様と対照的な、白い鳥居を持つ白蛇神祠が祀られていた。
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三輪厳島神社
http://ebarahist.exblog.jp/8646579/
2008-09-21T17:52:40+09:00
2008-09-21T17:53:18+09:00
2008-09-21T17:53:18+09:00
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水辺
大森中の八幡神社から商店街の通りへ戻り、さらに東へ向かうと産業道路に行き当たる。その殺伐とした大通りに面して三輪厳島神社がある。三輪神社と厳島神社が合祀されたものであろう。近くには別に三輪神社という社もある。
境内のほとんどは駐車場になっており、隅の方に遠慮がちに社殿があった。
社殿近くの由緒書きを見てみると、創立の起源は治承四年(1180)にさかのぼるという。源義経一行が多摩川の渡しを過ぎたときのことというから、平泉から富士川の源頼朝の陣へ駆けつける際のことであろう。義経一行の舟が風に押し流され不安に思っていたところ、波の向こうに小高い杜が見えたという。これは神のおわすところだと思いそこへ向かって海上の安穏を祈ると、不思議と波風が治まったそうだ。そこで義経が霊を感じ、この杜を訪ねてみると、社の縁に白蛇が現れたという。これは神の使いで、きっと厳島大神が自分たちの運を守ってくれたのだということで、森を拓き神殿を修理し、また舟をつけたところに注連竹を建てたということである。これがこの厳島神社の起源であるとのことだ。荏原の社の由緒に源頼義・義家が登場することは多いが、義経が出てくるのは珍しい。
それ以来、里の人が海面守護の神として毎年水神を祀っていたところ、ある年注連竹に黒い苔が付着していたそうだ。人々が試しにそれをなめてみると味があり、さらに干して食べてみると風味が殊に良いということで、翌年小枝を多く立てておくとまた苔が付着したので、次第にその苔を干して製造する者が多くなっていったという。これが有名な大森海苔の起源であり、鎌倉の将軍家、さらに時代が下って江戸の将軍家にも献上されるようになったとのことである。
これらの由緒から、この厳島神社は単に海上の守護神としてだけではなく、大森の海苔の製造業者からの信仰も厚かったことが窺える。実際、社殿前の燈籠の台座には発起人として「川端海苔製造業者」と刻まれていた。
また、社殿の脇には銭洗弁財天が祀られていた。
さらに、この神社の境内からは板碑が発掘されているという。それらの板碑のうち、十六基が近くの密乗院というお寺に保存されているが、残念ながら非公開であった(下の写真は密乗院である)。
尚、保存されているもののうち年代銘のあるものは延慶三年(1310)から文明六年(1474)までであるというから、義経の話や海苔の伝承の件と相まって厳島神社が中世から厚く信仰されていたことが窺える。荏原における古くからの水辺の信仰を見ることができた。
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