2007年 05月 30日 ( 1 )

自由が丘の石仏

 さて、八幡めぐりは追々進めるとして、まずは身近な史跡から入ってみたい。家の近所にある石仏巡りだ。
 私が初めて、史跡巡りらしいものをしたのは、小学校3年生の頃ではないかと思う。社会科の授業でテーマとなったからである。そのとき訪れたのが、近所にある路傍の石仏である。我が家から歩いて10分とかからない。これらの石仏はそれ以来、そばを通るたびに気にしていたが、史跡巡りの対象として訪れるのは、小学校以来のことである。
 小学6年生で本格的に日本史を学び始めて以来、私の興味関心は、次第に遠くの有名な史跡へと向けられるようになっていった。大きな城であったり、立派な寺であったりと、興味の対象はどんどん外へと向けられていった。だが、三十年近く経った今、私の興味対象はまたここへ戻ってきた。

 最初に訪れたのは、目黒区自由が丘三丁目一番地にある道しるべだ。
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 目黒通りに面した大きな家の角にある。朱書きで大きく「左九品仏江」と書かれているのが印象的だ。私が初めて見たときから変わらぬ姿でここにある。ただ、以前にはなかった目黒区教育委員会の案内板ができていた。
 その説明によると、これは「高台座付丸彫地蔵像塔」であるという。道標の上に、たしかにお地蔵様が載っている。だから石仏と言っても良いのかもしれない。
 道標の正面は「左九品仏江」であるが、左面には「南無妙法蓮華経」、右面には「南無阿弥陀仏」と刻まれているという。ちょっと見にくいが、左面には独特の跳ねるような字体で「南無妙法蓮華経」が見えた。また背面には年号が刻まれているそうだ。寛保四年とあるから、西暦1744年に当たる。江戸時代の中頃だ。
 この道標は、九品仏にゆかりの者が建てたという。九品仏とは浄真寺のことを指す。その名の通り、九品阿弥陀仏が安置されている浄土宗の寺だ。それで「南無阿弥陀仏」が刻まれているわけである。だが、なぜ反対側に「南無妙法蓮華経 」と刻まれているのだろうか。これは日蓮宗の題目である。
 案内板によれば、当時この辺りには、日蓮宗の信者が多かったのだという。それで道標を建てるにあたり、日蓮宗の題目の刻印を承諾させられたという言い伝えがあるそうだ。この辺りに日蓮宗の信者が多かったとは知らなかった。驚きである。もっとも、近所には立源寺や常円寺といった日蓮宗のお寺があるから、頷ける。それらの寺の檀家になっていた人が多かったのだろう。そういえば子供の頃近所で、寒い時季に太鼓を叩いて題目を唱えながら歩く人々を見たことがある。あれも日蓮宗の信者だと思う。

 灯台下暗し、というか、今更ながら自分の足元の地の新たな歴史を知ったことに恥らいつつ、目黒通り沿いを少し東へ向かう。すると東南へ切れ込む道がある。この分岐点にも石仏がある。こちらは庚申塔だ。目黒区中根一丁目二十五番地にあたる。
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 ここの庚申塔にも思い入れがある。同じく小学生のときに見学したことがあるからだ。自分の名前を音読みすると庚申と同じになるので、何となく庚申塔には親しみを感じていた。また、庚申塔には見ざる・聞かざる・言わざるの猿が刻まれているという話も、子供には親しみやすかった。
 ただ、この石仏を取り巻く景色は少し変わっていた。昔は木の覆いだったのに、今では立派な石造りの覆いになっていた。また、左後ろに大きな枯木の幹が突っ立っているが、子供の頃はまだその木が元気に生い茂っていたように思う。背後にあるマンションも建て変わっていた。でも、石仏の脇にはやはり教育委員会の案内板ができていて、これはありがたかった。
 説明によると、二体のうち右は庚申塔だが、左は馬頭観音であるという。私は二つまとめて庚申塔だと思っていたが、左の像の頭上には馬頭の痕跡があるそうだ。しかも驚いたことに、明治六年の銘があるという。江戸時代のものだとずっと思っていたが、明治になってから建てられたものなのだろうか。馬頭観音は馬を供養するために造られるものである。目黒通りは、古くは二子道という。馬の行き交うような通りであったことが窺える。
 右は紛れもなく庚申塔であるという。青面金剛が彫られているからである。江戸時代に流行した庚申信仰は、地縁的な講集団が六十日毎の庚申の夜に集まって、青面金剛に祈るものである。この辺りにもそうした集会を行う講があったのだろう。私の足許にも、しっかりと歴史は刻まれている。それを改めて実感できた最初の旅であった。

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by ebara_explorer | 2007-05-30 18:45 | 石造物