2007年 07月 06日 ( 2 )

中原街道石橋

e0123189_2216366.jpg

 雪ヶ谷八幡神社を見学した後、東急池上線の石川台駅前を通り過ぎ、中原街道沿いに出た。街道沿いを少し西へ向かえば呑川とぶつかる。あとは川沿いにさかのぼれば、地元に戻れる。ただ、この日はすでに、暑い中をけっこう歩いていた。午前中は池上から馬込、午後は電車で大岡山に移動した後、洗足池から千束八幡神社、雪ヶ谷八幡神社と回ってきた。さすがに少し疲れも出てきた。また、見学も充実したもので、もはやこれで史跡巡りは一旦打ち止めだと思っていた。

 ところが、呑川の手前の横断歩道で中原街道を渡ると、交差点の脇に史跡の案内板らしきものが見えてきた。おやっと思って良く見ると、近くに石碑のようなものがある。間違えなく史跡だ。

 史跡巡りには二つの楽しみがある。一つは、事前に予習してきた史跡を見学することである。予備知識があることで、見学は深いものになる。やっぱりそうだったか、とか、こんなこともあるのか、と得られるものは大きく、楽しくなってくる。 

 もう一つは、事前に予習していなかったものに偶然出会うことである。こんなところにこんなものがあったのか、という驚きとともに喜びも得られる。また、それが自分の予習してきたものと密接に関わっていたりして、見学の中身がさらに濃くなるという効果も出てくる。

 この日はその二番目の楽しみを、すでに味わっていた。洗足池を出たところで出会った九品仏みちの道標である。この道標を見つけたことで、大きな喜びを得ていた。それ以外にも予定していた史跡をしっかりと見学してきたし、もう飽和状態になっていた。

 そこに来て、またこの予期せぬ史跡の登場である。もう頭はいっぱいだ。案内板と石碑が目に入ったとき、私は思わず苦笑いしてしまった。まだ出てくるのか、という思いであった。

 しかし、見逃すことはできないと思ってしまう。また来ればよいのに、近いからいつでも来られるのに、ついつい寄って行って見てしまう。

 案内板によると、この石碑は「石橋供養塔」というそうだ。江戸時代の安永三年(1774)に、雪ヶ谷村の浄心らが石橋の安泰を祈って建てたという。石橋とは呑川を渡る中原街道に架かっていた橋のことだ。今、呑川に架かっているのはコンクリートの橋である。

 供養塔の正面には「南無妙法蓮華経」と刻まれている。また日蓮宗の題目だ。側面には円長寺の住職日善の署名と花押があるという。円長寺とは、先の雪ヶ谷八幡神社のところで出てきた、この近くにある日蓮宗寺院である。荏原の歴史を旅する私に、日蓮宗は「これでもか」というくらい付きまとってくる。

 この石橋供養塔は、石橋の無事と通行人の交通安全だけを祈念したという意味で貴重なものだという。でも私にしてみれば、今ここで出てきてほしくなかったなあという史跡であった。

 溢れんばかりの史跡巡りの成果を背負いながら、私はとぼとぼと呑川沿いの帰途に就いた。

写真:石橋供養塔(右側)と、現在の呑川に架かる石川橋(左奥)


にほんブログ村 歴史ブログへ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-06 22:18 | 石造物

雪ヶ谷八幡神社

e0123189_2223438.jpg

e0123189_2231145.jpg

 千束八幡神社に程近い雪ヶ谷八幡神社は、大岡山方面から伸びてきた台地の崖下に位置している。東急池上線石川台駅前の小さな商店街にスッポリと納まっている小さな社だ。

 境内の「社誌」を読んでみる。すると意外にも新しい社であることがわかった。新しいといっても、八幡社としては、ということであり、創建は戦国時代である。

 永禄年中というから西暦1558年から1570年の間のことであるが、当時この地を支配していた戦国大名北条氏康の家臣太田新六郎という者が、巡回の途中に当地で法華曼荼羅の古碑を発掘したという。その「奇瑞」により八幡大菩薩を祀ったそうだ。八幡神社の創建に戦国武将が関わっているというのは、新しいパターンである。千束八幡神社を訪れた後に、ついでのような形で訪れた雪ヶ谷八幡神社であったが、同じ八幡神社でも全く性質の異なるものであった。

 ところで、発掘された「法華曼荼羅」というのは、日蓮宗の曼荼羅ではないだろうか。法華曼荼羅とは法華経の世界を表したもので、法華経は日蓮宗で最重要視される経典である。荏原では、八幡社に触れても日蓮宗が登場してくる。

 それにしても、法華曼荼羅と八幡大菩薩はどのような関わりがあるのだろうか。戦国武将が創建したから、単に武神を祀ったというだけなのだろうか。

 当社は江戸時代になると、近隣に創建された円長寺・長慶寺が隔年で別当に就いたという。両寺はもともと、碑文谷法華寺の末寺とされる。

 碑文谷法華寺とは、現在の円融寺のことだ。円融寺は今でこそ天台宗であるが、以前は日蓮宗の寺院であった。しかし、日蓮宗の中でも禁制となった不受不施派に属したため、江戸幕府により天台宗に改宗させられてしまった。このため、末寺であった円長寺・長慶寺は池上本門寺の末寺へ編入されることとなった。

 ということはやはり、この雪ヶ谷八幡神社は日蓮宗と深く結び付いているということである。そういえば、碑文谷法華寺(現・円融寺)の近くにも、碑文谷八幡神社という八幡社がある。八幡社と日蓮宗寺院の関係というものも、これからは考えていく必要があると思う。

 明治時代になると、神仏分離令により円長寺・長慶寺と当社の関係はなくなる。今、雪ヶ谷八幡神社は小ぢんまりとしていて、村の鎮守といった風情である。私が訪れた六月半ばには、大祓の案内書きが境内にひっそりと出ていた。


にほんブログ村 歴史ブログへ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-06 22:04 | 八幡宮めぐり