2007年 07月 08日 ( 1 )

世田谷八幡神社

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 荏原の史跡巡り上、南東の巨大な存在である池上本門寺に対して、北西には吉良氏という大きな存在がある。荏原の戦国大名である。池上本門寺が大田区の史跡巡りの中心になるのに対して、吉良氏は世田谷区の史跡巡りの中心になるといってよい。

 その吉良氏の影に怯えつつ、私はまだ世田谷の史跡巡りに足を踏み出していなかった。しかし、いつまでも世田谷を放っていくわけにはいかない。

 そこで吉良氏はひとまず置いておき、とりあえず世田谷の八幡宮めぐりに出てみた。最初に訪れるのは、以前に一度行ったことのある世田谷八幡神社である。

 弦巻にある世田谷区の中央図書館に寄った後、歩いて世田谷八幡神社へと向かった。バス通りを北へ進むと、大きな交差点に出た。世田谷通りの少し手前である。信号待ちになったので立ち止まると、横断歩道手前の案内板に載っていた地図が目に付いた。

 地図には、目の前を左右に通じる道のところに「大山道」と書かれていた。江戸と伊勢原の大山を結ぶ古道だ。この古道も調べなきゃなあと思って地図上で追っていくと、すぐ先の道沿いに「八幡神社」の名が見えた。この八幡神社はノーマークであった。しまった、また八幡宮めぐりの行き先が増えてしまった、と思う。しかし「八幡神社」とあるだけで、名前がない。どんな神社なのだろうか。気にはなるが、今回の目的地は世田谷八幡宮である。信号が変わったので、そちらへと急ぐ。こちらの「八幡神社」はまた今度だ。

 吉良氏の史跡を横目にしながら、世田谷八幡神社へ向かう。社は東急世田谷線宮の坂駅のすぐ近くにある。前回は桜の咲く時期に来たが、今回は新緑の色濃くなった六月中旬である。

 鬱蒼とした境内に入って由緒書きを読む。創建には「八幡太郎」こと源義家が関わっているとのことであった。義家は後三年の役の帰途、この世田谷の里で豪雨に遭い、十日間も足止めをくらったという。その間に源義家は、後三年の役の勝利が八幡大神の加護によるものであったとして、宇佐八幡宮の分霊を招き盛大な祭りを執り行ったそうだ。また、里の人々にも八幡神を鎮守として信仰するよう教えたと伝えられている。これが世田谷八幡神社の起源とされている。

 このように、八幡宮の創建に源義家が関わっているという例は、あちこちに残っているように思う。全国に「空海が建立した寺」というのも実に多いが、源義家もどれだけ八幡宮を創建したのかと思う。各社の言い伝えを全て集めてつなげてみたら、後三年の役における行き帰りの道順はどうなるだろうか。

 それはさておき、由緒書きを読み進めていくと、やはり吉良氏が登場した。当社に残る棟札によると、天文十五年(1546)に世田谷城主であった吉良頼貞、頼康が社殿の修繕を行っている。また、ここは吉良氏の祈願所ともなっており、当時の神職は吉良氏家臣の大場氏が務めていたという。

 しかし吉良氏は、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで、北条氏とともに滅んでしまっている。その後は江戸に入府した徳川家康が庇護を加え、今日に至っているという経緯である。

 やはり吉良氏が登場してしまった。世田谷の歴史を紐解くのに、吉良氏は避けて通れない存在だ。吉良氏のことを学んでから、またここへ来ないといけないかもしれない。

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by ebara_explorer | 2007-07-08 23:47 | 八幡宮めぐり