2007年 10月 19日 ( 1 )

奥沢弁財天

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 奥沢神社の境内奥に、弁財天があった。木々が生い茂り鬱蒼としていて、薄暗いところだ。石碑に「奥沢弁才天社」と書かれている。しかし、そこにあるのは神殿ではなく岩屋であった。

 わずかな岩の隙間に石碑のようなものが見えた。周囲の雰囲気とあいまって、何とも神秘的だ。

 この弁財天の石碑は、もともと奥沢駅の南の商店街にあった湧水池に鎮座していたという。それが近代の耕地整理により、住宅地へと変貌して湧水も減り、水も汚れてきたため、昭和二十五年(1950)に奥沢神社の境内へ移されたそうだ。なお、湧水池は奥沢弁天池と呼ばれ、そこに住む白蛇が奥沢の耕地を潤していたという言い伝えがある。

 この前から「水辺」というテーマで、荏原の水に興味を持ち始めた私であるが、この奥沢の弁天様についても、もう少し調べてみたくなった。

 そこで奥沢神社前の自由通りを南下し、東急目黒線の踏切を越えて奥沢の商店街へと行ってみた。奥沢弁天池の痕跡が何かあるかもしれないと思ったからである。

 だが、商店街には何もそれらしきものはなかった。どこが池だったのかもよくわからなかった。駅前に戻ると噴水があったが、これは奥沢弁天池とは何の関係もなさそうだ。結局、奥沢弁天池の痕跡は見つからなかった。

 しかし、池があったということは、そこから流路が出ていたはずである。その痕跡はあるかもしれないと思い、探してみることにした。

 まずは谷を探す。奥沢駅の踏切を越えた自由通りが下り坂になっている。下り切ったところが、踏切から一つ目の信号のある角あたりだ。これを東へ折れる。すると、この道に交わる路地は北側も南側も上り坂となった。明らかに窪みになっている。ここが流路ではないかと思って辺りをさまよううち、ついに細い流路を発見した。奥沢一丁目三十一番地のところである。
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 流れは家と家の隙間にあり、歩いて沿って行くわけにはいかない。それで区画の周囲をぐるっと回って、反対側の道に出た。流路はなおも東へ続いていたが、三十番地の先で地中に潜ってしまった。しかし、先には不自然に幅の広い歩道が続いている。この下が流れだと思い、それにそってさらに東へ向かう。私は残暑の厳しい中をひたすらに歩いた。

 やがて道は奥沢中学校に行き当たった。そして直角に南へ曲がっている。幅の広い歩道も南へ続いている。それに沿って歩いて行くと、公園のある一角に出た。この先歩道は見当たらず、行き詰ってしまったが、東へ向かう道が幅広い。それに沿って行くと、道は呑川に行き当たった。奥沢からの流れはここで呑川に合流していたのであろう。
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 橋を渡って慌てて対岸に行ってみると、奥沢からたどってきた道の合流点辺りでコンクリートの護岸が大きく口を開けていた。そこからわずかに水がしたたり落ちて、呑川の流れへ合流している。私は、奥沢弁天池からの流路をしかと見届けた。奥沢の弁天様が守っていた水の流れである。また一つ、荏原の水辺を知ることができた。
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by ebara_explorer | 2007-10-19 23:05 | 水辺