2008年 05月 30日 ( 1 )

駒繋神社

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 野沢からバス通りを北東へ下って行くと、蛇崩川の緑道にぶつかる。これに沿って東へ行くと、右手にこんもりとした丘が見えてくる。川の流れはその丘の淵に従ってグッと曲がっていく。すると鳥居に行き当たる。そこが駒繋神社である。文化十二年(1815)に書かれた「世田谷紀行」には、駒繋神社のことを「こは、下馬牽澤村に有りていと古き世の奥つ城と見ゆ。濠をめぐらしし中に、丘を高うつきなしたるは、奈良の朝よりあなたのつくりざまになんありける」とあるそうだが、川の流れと丘の様子は城跡の濠と土塁のようでもある。

 暗渠となった蛇崩川に架かる小さな朱塗りの橋を渡って境内に入る。急な石段を上って丘の上に出ると、穏やかな日に照らされた本殿があった。さっそくお参りしてから、本殿脇にある由緒書きを読んだ。
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 それによると駒繋神社は「子の神」とも呼ばれているという。子の神とは大国主命のことで、これは出雲の神様である。歴史をたどると、平安時代の天喜四年(1056)に前九年の役で源頼義・義家父子が奥州へ下る途中、この地を通過した際に子の神に参拝したと伝えられているため、これより以前に社が祀られていたとされている。

 源頼義・義家父子が奥州へ下る際に参拝したという話がまた出てきた。これはすでに見たいくつかの八幡神社の由緒書きにあったものと同じだ。

 私は、由緒書きに源頼義・義家父子が参拝したと出てくるのは、八幡神社として箔を付けるためのものではないかと思っていた。八幡太郎といわれる義家が参っているとなれば、八幡神社として格が上がるだろう。

 だが、今回は子の神である。源頼義・義家父子参拝の話は、八幡神社に限ったものだけではなくなってきた。

 しかも、この社の由緒には続きがある。文治五年(1189)に源頼朝が奥州へ下る際、この地でかつて義家が子の神に参拝したことを回想し、愛馬より下りてその馬(駒)を境内の松に繋いで参拝したため、駒繋神社と呼ばれるようになったという。ここで注目したいのは、鎌倉時代の頼朝の頃に、かつて義家が子の神に参ったという故事がすでに広く知られていたということではないだろうか。

 それにしても、源頼義・義家父子参拝の話は荏原に多い。そして実際に、この由緒が出てくる神社をつなげて軍勢の行程を作ろうとしても無理が出てくる。いったいこの話にはどんな意味が込められているのだろうか。私は荏原のみならず、もっと広い範囲でこの由緒のある神社を探ってみたくなった。



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by ebara_explorer | 2008-05-30 18:41 | 神社