カテゴリ:神社( 2 )

駒繋神社

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 野沢からバス通りを北東へ下って行くと、蛇崩川の緑道にぶつかる。これに沿って東へ行くと、右手にこんもりとした丘が見えてくる。川の流れはその丘の淵に従ってグッと曲がっていく。すると鳥居に行き当たる。そこが駒繋神社である。文化十二年(1815)に書かれた「世田谷紀行」には、駒繋神社のことを「こは、下馬牽澤村に有りていと古き世の奥つ城と見ゆ。濠をめぐらしし中に、丘を高うつきなしたるは、奈良の朝よりあなたのつくりざまになんありける」とあるそうだが、川の流れと丘の様子は城跡の濠と土塁のようでもある。

 暗渠となった蛇崩川に架かる小さな朱塗りの橋を渡って境内に入る。急な石段を上って丘の上に出ると、穏やかな日に照らされた本殿があった。さっそくお参りしてから、本殿脇にある由緒書きを読んだ。
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 それによると駒繋神社は「子の神」とも呼ばれているという。子の神とは大国主命のことで、これは出雲の神様である。歴史をたどると、平安時代の天喜四年(1056)に前九年の役で源頼義・義家父子が奥州へ下る途中、この地を通過した際に子の神に参拝したと伝えられているため、これより以前に社が祀られていたとされている。

 源頼義・義家父子が奥州へ下る際に参拝したという話がまた出てきた。これはすでに見たいくつかの八幡神社の由緒書きにあったものと同じだ。

 私は、由緒書きに源頼義・義家父子が参拝したと出てくるのは、八幡神社として箔を付けるためのものではないかと思っていた。八幡太郎といわれる義家が参っているとなれば、八幡神社として格が上がるだろう。

 だが、今回は子の神である。源頼義・義家父子参拝の話は、八幡神社に限ったものだけではなくなってきた。

 しかも、この社の由緒には続きがある。文治五年(1189)に源頼朝が奥州へ下る際、この地でかつて義家が子の神に参拝したことを回想し、愛馬より下りてその馬(駒)を境内の松に繋いで参拝したため、駒繋神社と呼ばれるようになったという。ここで注目したいのは、鎌倉時代の頼朝の頃に、かつて義家が子の神に参ったという故事がすでに広く知られていたということではないだろうか。

 それにしても、源頼義・義家父子参拝の話は荏原に多い。そして実際に、この由緒が出てくる神社をつなげて軍勢の行程を作ろうとしても無理が出てくる。いったいこの話にはどんな意味が込められているのだろうか。私は荏原のみならず、もっと広い範囲でこの由緒のある神社を探ってみたくなった。



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by ebara_explorer | 2008-05-30 18:41 | 神社

八雲氷川神社

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 9月15日と9月16日は、近所の八雲氷川神社の祭礼であった。幼い頃から、氷川神社の「お祭り」の日は家の周りが何となく華やかで、楽しみな日であった。ちょうど暑さが和らぎ、何となく過ごしやすくなる頃でもあり、時期的にも良い。

 今年は荏原の歴史を旅するようになったこともあり、祭礼にあたって氷川神社の歴史についても改めて調べてみた。すると、知らないことがいろいろとあった。まさに灯台下暗しである。

 八雲氷川神社は旧衾村(現・八雲、東根、柿の木坂、中根、自由が丘、緑が丘、大岡山、平町)の鎮守であった。神社の創建については不明であるそうだが、江戸時代の宝暦七年(1757)の文書に「鎮守氷川宮」の「鳥居」建立についての記録があるという。

 この神社は古くから「癪(腹痛)封じの神」として信仰されていたそうだ。近郷近在のみならず、遠方からも参詣者があったそうで、そのために境内には宿泊所もあったという。今の静かな境内からは、想像もつかないことである。また、境内に残るアカガシは、癪封じのご利益があるとされ、煎じ薬にするため皮をはぐ参詣者が後を絶たなかったため、ついに枯れてしまったと伝えられている。

 そんな昔の賑わいをわずかばかり取り戻すのが、祭礼の日かもしれない。参道に露店が並び、近所の子供たちが繰り出す。しかしその賑わいも、私が子供の頃に比べてだいぶ小さくなったように思う。少子化の影響だろうか。また「高級住宅街」と揶揄されるこの辺りには新たな居住者が増えて「地縁」が薄くなっていることも関係しているのかもしれない。

 祭礼の日には、境内の神楽殿で神楽が奉納される。私は小学校で歴史を習い始めた頃に一度見たことがあるような記憶があるが、そのときのことはもうあまりはっきりと憶えていない。今年はそれ以来、久しぶりに神楽を見た。祭神の素戔嗚尊やその姉の天照大神などが登場し、なかなか豪勢であった。

 白眉は「剣の舞」である。二本の剣を使った舞が奉納される。素戔嗚尊の八岐大蛇退治の物語を表したものであるというが、当地の繁盛を祈願するものでもあるようだ。

 地元に古式豊かな文化が伝わっていることを、嬉しく思った。ただ、舞う人も、後ろで太鼓や笛を奏でる人も、みな年配の方だ。この文化が、後世に伝わっていくのかどうか、不安はある。この地に育ち、暮らしてきた者として、文化の継承のために何か役立てないだろうか、とも考えてみた。



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by ebara_explorer | 2007-09-17 13:06 | 神社