カテゴリ:水辺( 10 )

大井原の水神池

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 品川歴史館の前から、西へ続く細い道をひたすら行くと、小さな祠と池が見えてくる。湧水の出る池だ。ここもまた、大井の水神社と同じく、台地の末端から湧き出た水である。昔は地域の人が出荷する野菜を洗った「洗い場」だそうで、水は現在も湧き出ている。池の名を「原の水神池」という。

 池のほとりに祀られているのは水神社で、農耕や日常生活に欠かせない水を確保し続けたいという願いから、地域の人々が祀ったものであるという。現在の祠は明治十二年(1879)に建てられたものだそうだが、水に対する信仰はそのずっと前からあったのだと思う。
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 水神社ということは、ここも大井の水神社同様、弁天様とは違う神様が祀られているのだろう。弁天様というと、池の真ん中に祀られていることが多いが、ここは池から少し高くなったところに祠がある。その辺りからも、この祠に祀られている神様は弁天様とは異なることではないかと思う。

 水神社の祠の左には、小さな石祠があった。この中には供養塔が納められ、塔には「羽黒山 湯殿山 月山 雷里沢不動尊 子浜弁才天 新井川不動尊」の銘が彫られているという。出羽三山の名前があるのは注目だ。

 池の水は清く澄んでいたので、眼病にも効果があるといわれ、人々は眼病が治るとそのお礼に鯉を池に放したそうである。祠の近くに「鯉塚」というものがあったが、その放した鯉を祀ったものであろうか。また、祠の扉の脇には鯉が浮き彫りにされていた。ここの神様が鯉と密接に関わっていることが窺える。
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 今でも池には鯉がいる。また、亀の姿も見えた。しかし、池の周りには金網が張り巡らされ、水面にはネットが張ってある。かつて「洗い場」だったということは、地域の集会場みたいなところであったのではないだろうか。それが今では、何となく物々しい感じがした。

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by ebara_explorer | 2008-12-25 18:26 | 水辺

大井の井

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 大井の来迎院から住宅地の中の細い道を少し北へ向かって行くと、光福寺という寺がある。創建は延暦元年(782)と伝える古刹だが、ここには大井の井なるものがある。

 境内の案内板によれば、これは大井の地名のもとになった井戸であるという。親鸞聖人門下の関東六老僧の一人である了海上人が産湯として使った井戸とされる。

 寺伝によると、了海上人の父が子授けを蔵王権現に祈願したところ、妻が懐妊し男子を出産したそうである。これが後の了海上人である。そのとき、この寺の境内に泉が湧き出したので、それを産湯として使い、大井と名付けたということだ。この井戸からは今でも水が湧き出しているという。

 これもまた、荏原における水の信仰の一つと言えるのではないだろうか。特に大井という地名のもとになっているということからも、重要である。また、この光福寺の山号も「大井山」となっている。尚、寺の名を光福寺と改めたのは了海上人であり、そのときから浄土真宗になっている。

 それから光福寺の境内には、大きなイチョウの木がある。高さ30メートル、幹の周囲6.4メートルで、樹齢は八百年というから、大井の井の話が生まれた頃までさかのぼる木であると言える。かつては海上を行く船が目印にしていたというから、ずいぶん遠くからも見えたのだろう。だが、今は都会の建物の中に埋もれて、海から望むことはきっとできないと思う。



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by ebara_explorer | 2008-12-18 18:47 | 水辺

大井の水神社

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 大森駅の東口から北へ向かうと、大井水神公園という公園がある。この公園は、大井町方面へ向かって、線路沿いに細長く連なっている。それが途切れたところに水神社という小さな社がある。

 案内板によれば、ここには台地の末端から湧き出した地下水があったそうだ。その水は豊富で、かつて地域の人々が飲み水や農業用水に利用していたため、豊かな水の供給を願って神様が祀られた。それが九頭龍権現であるという。貞享二年(1685)に大井村の桜井伊兵衛・大野忠左衛門が願主となって祀ったのが最初だそうだ。その後、明治時代までは日照りになると村人がここへ集まって雨乞いをしていたと伝えられている。また、歯痛を止めるご利益もあったということだ。

 水辺の神といえば、今まで荏原で見てきたのはいずれも弁天様であったが、ここの神様は九頭龍権現というそうだ。初めて聞く名前である。九頭龍といえば、福井の九頭竜川がすぐに思い浮かぶが、何か関係があるのだろうか。

 こんもりとした木々に覆われた境内はひんやりとしていた。その真ん中には、水神の池と呼ばれる池がある。品川百景にも選ばれているそうである。池には鯉が泳いでいた。この池と、近くの手水鉢には滔々と水が流れ出ていたが、ここで水が湧き出ていたのは昭和五十年代までのことだそうだから、今は自然の湧水ではないようだ。
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 境内に本殿を探してみると、隅の方に小さな祠があった。岩をくりぬいた中にすっぽりと納まっている。
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 また、となりの岩山のてっぺんには「九頭龍大権現」と書かれた石碑が建っていた。その他にも周囲の岩場には石碑の痕跡らしきものがいくつか見られ、信仰の深さを窺わせるものであった。
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 荏原の中では、ちょっと変わった水辺の信仰であった。



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by ebara_explorer | 2008-12-05 19:27 | 水辺

三輪厳島神社

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 大森中の八幡神社から商店街の通りへ戻り、さらに東へ向かうと産業道路に行き当たる。その殺伐とした大通りに面して三輪厳島神社がある。三輪神社と厳島神社が合祀されたものであろう。近くには別に三輪神社という社もある。

 境内のほとんどは駐車場になっており、隅の方に遠慮がちに社殿があった。
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 社殿近くの由緒書きを見てみると、創立の起源は治承四年(1180)にさかのぼるという。源義経一行が多摩川の渡しを過ぎたときのことというから、平泉から富士川の源頼朝の陣へ駆けつける際のことであろう。義経一行の舟が風に押し流され不安に思っていたところ、波の向こうに小高い杜が見えたという。これは神のおわすところだと思いそこへ向かって海上の安穏を祈ると、不思議と波風が治まったそうだ。そこで義経が霊を感じ、この杜を訪ねてみると、社の縁に白蛇が現れたという。これは神の使いで、きっと厳島大神が自分たちの運を守ってくれたのだということで、森を拓き神殿を修理し、また舟をつけたところに注連竹を建てたということである。これがこの厳島神社の起源であるとのことだ。荏原の社の由緒に源頼義・義家が登場することは多いが、義経が出てくるのは珍しい。

 それ以来、里の人が海面守護の神として毎年水神を祀っていたところ、ある年注連竹に黒い苔が付着していたそうだ。人々が試しにそれをなめてみると味があり、さらに干して食べてみると風味が殊に良いということで、翌年小枝を多く立てておくとまた苔が付着したので、次第にその苔を干して製造する者が多くなっていったという。これが有名な大森海苔の起源であり、鎌倉の将軍家、さらに時代が下って江戸の将軍家にも献上されるようになったとのことである。

 これらの由緒から、この厳島神社は単に海上の守護神としてだけではなく、大森の海苔の製造業者からの信仰も厚かったことが窺える。実際、社殿前の燈籠の台座には発起人として「川端海苔製造業者」と刻まれていた。

 また、社殿の脇には銭洗弁財天が祀られていた。
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 さらに、この神社の境内からは板碑が発掘されているという。それらの板碑のうち、十六基が近くの密乗院というお寺に保存されているが、残念ながら非公開であった(下の写真は密乗院である)。
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 尚、保存されているもののうち年代銘のあるものは延慶三年(1310)から文明六年(1474)までであるというから、義経の話や海苔の伝承の件と相まって厳島神社が中世から厚く信仰されていたことが窺える。荏原における古くからの水辺の信仰を見ることができた。



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by ebara_explorer | 2008-09-21 17:52 | 水辺

玉川弁財天

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 穴守稲荷神社の南に弁財天があるのを地図で見つけた。弁財天も水辺の史跡として訪れているから、気になる存在である。その場所は多摩川の河口近くでもある。

 稲荷神社を出て、住宅街の中の道を抜けて弁財天へと向かう。弁財天のある多摩川の河口付近は荏原の端っこである。そこへ近付くうち、何だかずいぶん遠くへ来たような気がしてきた。そして、大げさかもしれないが、世の果てに近付くような気分にもなってきた。

 川べりに出た。川とも海ともつかぬ広い水面のすぐ向こうにすぐ、羽田空港の施設が見えている。東京の先端だ。
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 玉川弁財天は、川沿いの堤防の下にひっそりとあった。堤防上から、紅く塗られた階段を伝って下りて行く。弁財天に隣接して、水神社という小さな社がある。かつて羽田にいた漁民が、漁場である海上の安全や、大漁を祈願していた神社であるという。水波乃咩命が祀られているが、草創などに関する由緒は明らかでないそうだ。小さな社殿の前に、白く塗られた鳥居が立っている。それが何となく海の神らしかった。そしてこの地もともと、水神社の境内である。玉川弁財天は、ここへ移されてきたものである。
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 玉川弁財天はそもそも、要島という、今は羽田空港の敷地になっているところにあった。それが穴守稲荷神社と同様、昭和20年(1945)に強制退去させられたため、現在地に移されたという。
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 この弁財天には、江ノ島にある弁財天と同体で弘法大師作の本尊を祀っているとか、多摩川上流にある弘法大師開創の日原山から霊光を発する宝珠が流れて来て、この辺りに止まっていたのを土地の人が祀ったといった言い伝えがある。

 弁財天の堂のところにもいわれを記した手書きの案内板があり、それによると、ここに祀られている弁財天には弘法大師「空海作」という銘があるそうだ。また弘法大師が護摩の灰を固めて刻んだものだという言い伝えもあるとのことだ。どの説をとっても弘法大師が出てくるということは、真言密教に関わっているのだろう。

 案内板には、ここの弁財天は広島の厳島神社、江ノ島の弁財天と並び日本三弁天の一つであると誇らしげに書かれていた。これまで私が荏原で見てきた弁財天は、いずれも内陸の水源に祀られたものであったが、ここの弁財天は、海に関わるものであると言える。そういう意味では、少し異質な弁天様である。

 弁財天は小ぢんまりとしているがどっしりとした堂であった。水神社のところには鳥居があるが、こちらにはないから「社殿」ではなく「堂」と言って良いのだろう。お参りをするときも、拍手は打たなかった。
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 堂の右手には小さな池があり、真ん中には祠があった。音がするので近寄ってみると、カメがのそのそと動いていた。
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 再び堤防の上に出て、羽田空港の方を眺めた。玉川弁財天はもともと羽田空港の敷地内にあったという。だから、これから羽田を飛び立つときは、必ずこの弁財天に想うようにしようと私は思った。



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by ebara_explorer | 2008-02-17 17:28 | 水辺

山王厳島神社

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 馬込から埃っぽい環七通りを渡って山王に入り、住宅地の中を進むと、池のある公園が忽然と現れる。大田区山王四丁目二十三番地である。

 園内の色付き始めたイチョウの葉の下には、細い白木でできた鳥居がある。池の真ん中には小さな社殿もある。厳島神社である。弁天様を祀る水の神様だ。ここも荏原の湧水池の一つである。
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 さっそく社殿に参ろうとすると、参道の途中には頑丈な鉄格子があり、社殿に近付くことすらできなくなっていた。コンクリートの土台を金網で囲った弁天島を、池の周囲から眺めるしかなかった。
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 社殿を取り囲む池には噴水があるものの、水は何となく淀んでいた。水中に生き物も見当たらず、小さな石の上にカメがいるだけであった。
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 仕方なく池の周囲を歩いてみると、裏手に花清水公園という別の公園があった。この一角はきれいに整備され、名の通り花もいろいろと植えられていた。敷地の一番奥に「御神水 弁天池源泉」と書かれた札が立てられている。そこには犬小屋のような覆屋にすっぽり納まった、小さな小さな祠が祀られていた。この祠のあるところから水が湧いているのだろう。祠に祀られているのも弁天様だと思われる。池にある弁天様の奥宮といったところだろうか。
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 祠からは小さな流路が続いている。水は一見淀んでいるように見えたが、段差のあるところに流れが確認でき、少しずつ水が湧き出ているようにも見えた。しかしわずかな水の量である。
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 池へ戻って周囲を見渡したが、この池からさらに流路が続いていそうにはなかった。だが、かつてはどこかへ流れ出ていたのではないかと思う。ここから南東方向には内川という流れがある。そこへ繋がっていたことも考えられる。そしてその流れはきっと、辺りの農地や生活を潤す大事な大事な水であったに違いない。また、今は厳重に囲まれ隔離されている弁天様も、その時代には人々の身近にあって厚く厚く信仰されていたのではないかと思う。



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by ebara_explorer | 2007-12-29 12:19 | 水辺

小山厳島神社

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 以前訪れた清水窪弁財天から見て、環七通りを挟んだ反対側に別の弁天様を見つけた。東急目黒線を洗足駅で下車し、線路沿いを西小山駅方面へ道なりに進むと下り坂になる。その坂下に弁天様はあった。品川区小山七丁目五番地である。

 小さな池の奥に弁天様が鎮座している。比較的新しい社殿だ。軒下にある額を見ると「厳島神社」と書かれていた。水を守護する神様に間違いはないが、特に由緒書きはない。

 辺りを見回すと、社殿の左手に小さな石碑を見つけた。急いで近寄って見てみると「鳥居奉納 弁天講」と書かれ、人の名前がたくさん刻んであった。いつごろのものかと思って年号を探すと、石碑の裏に「昭和五年」とあった。比較的新しい。

 結局、小さな境内に由緒書きは見当たらなかったが、ここも清水窪弁財天と同じく、湧水の出るところなのだろう。地形を詳しく見ていないが、清水窪と一続きの崖線なのかもしれない。

 池には鯉が泳ぎ、噴水のように水が出ていた。ここから流路が出ていたのであろうか。

 周囲を見てみると、境内の南側に橋の一部を見つけた。そこには「弁天橋」と書かれていた。ここから流れが出ていたに違いないと思う。しかし、道を隔てた反対側は駐車場で、その先は民家である。
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 それでも何とか流路をたどろうと、小山八幡神社を参拝した後にここへ戻ってきた。弁天様は東西方向の窪みの底にある。とすると、流れは南北へ伝っていたはずである。橋が弁天様の南側にあるから、流れは南へ向かっているだろう。道を南へ歩き始める。

 小山七丁目六番、九番、十番を見ながら道を南下していく。交わる道は両方向とも、こちらの道に向かって下り坂になっている。流れの方向はこちらで間違いないと思う。しかし、流路はもとより、流れの跡のような細道も見えてこない。ただ、流路と想定されるところは、心なしか新しい家が多いように思う。

 小山七丁目という交差点に出た。複雑な五差路だ。交わる道の坂がなだらかになって、窪みが広がってきたように思う。しかも辺りは民家が密集している。こうなると流路の手がかりを失ってしまう。小山の弁天様が守護する水の流れ探訪は、ここで断念した。

 後日、この辺りの地形図を見てみると、南西の洗足池へ向けて土地が低くなっていることがわかった。流路は環七通りを越え、東急大井町線北千束駅付近を過ぎて洗足池につながっていたのではないかと思う。あるいは途中で、先に見た清水窪弁財天からの流路に合流していたのかもしれない。流れを完全に追うことはできなかったが、湧水の源に弁天様ありという信仰の形を、また見ることができた。



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by ebara_explorer | 2007-10-22 23:16 | 水辺

奥沢弁財天

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 奥沢神社の境内奥に、弁財天があった。木々が生い茂り鬱蒼としていて、薄暗いところだ。石碑に「奥沢弁才天社」と書かれている。しかし、そこにあるのは神殿ではなく岩屋であった。

 わずかな岩の隙間に石碑のようなものが見えた。周囲の雰囲気とあいまって、何とも神秘的だ。

 この弁財天の石碑は、もともと奥沢駅の南の商店街にあった湧水池に鎮座していたという。それが近代の耕地整理により、住宅地へと変貌して湧水も減り、水も汚れてきたため、昭和二十五年(1950)に奥沢神社の境内へ移されたそうだ。なお、湧水池は奥沢弁天池と呼ばれ、そこに住む白蛇が奥沢の耕地を潤していたという言い伝えがある。

 この前から「水辺」というテーマで、荏原の水に興味を持ち始めた私であるが、この奥沢の弁天様についても、もう少し調べてみたくなった。

 そこで奥沢神社前の自由通りを南下し、東急目黒線の踏切を越えて奥沢の商店街へと行ってみた。奥沢弁天池の痕跡が何かあるかもしれないと思ったからである。

 だが、商店街には何もそれらしきものはなかった。どこが池だったのかもよくわからなかった。駅前に戻ると噴水があったが、これは奥沢弁天池とは何の関係もなさそうだ。結局、奥沢弁天池の痕跡は見つからなかった。

 しかし、池があったということは、そこから流路が出ていたはずである。その痕跡はあるかもしれないと思い、探してみることにした。

 まずは谷を探す。奥沢駅の踏切を越えた自由通りが下り坂になっている。下り切ったところが、踏切から一つ目の信号のある角あたりだ。これを東へ折れる。すると、この道に交わる路地は北側も南側も上り坂となった。明らかに窪みになっている。ここが流路ではないかと思って辺りをさまよううち、ついに細い流路を発見した。奥沢一丁目三十一番地のところである。
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 流れは家と家の隙間にあり、歩いて沿って行くわけにはいかない。それで区画の周囲をぐるっと回って、反対側の道に出た。流路はなおも東へ続いていたが、三十番地の先で地中に潜ってしまった。しかし、先には不自然に幅の広い歩道が続いている。この下が流れだと思い、それにそってさらに東へ向かう。私は残暑の厳しい中をひたすらに歩いた。

 やがて道は奥沢中学校に行き当たった。そして直角に南へ曲がっている。幅の広い歩道も南へ続いている。それに沿って歩いて行くと、公園のある一角に出た。この先歩道は見当たらず、行き詰ってしまったが、東へ向かう道が幅広い。それに沿って行くと、道は呑川に行き当たった。奥沢からの流れはここで呑川に合流していたのであろう。
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 橋を渡って慌てて対岸に行ってみると、奥沢からたどってきた道の合流点辺りでコンクリートの護岸が大きく口を開けていた。そこからわずかに水がしたたり落ちて、呑川の流れへ合流している。私は、奥沢弁天池からの流路をしかと見届けた。奥沢の弁天様が守っていた水の流れである。また一つ、荏原の水辺を知ることができた。
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by ebara_explorer | 2007-10-19 23:05 | 水辺

清水窪弁財天

 水辺を辿る旅は続く。自転車を駆って、環七通り沿いを目黒区から大田区目がけて下り、「南」交差点の先で右に折れて北千束一丁目の住宅街に入る。しばらくさまよううち、鬱蒼とした一角を見つけた。そこが清水窪弁財天である。
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 木立の中に池があり、その奥には小さな滝がある。水源がどうなっているのか見えないが、崖の上から水がこんこんと湧き、滝に落ちていく。そして滝のとなりには弁天様が祀られている。弁天様は二百年ほど前に祀られたと由緒書きに記してある。この湧き水を守る神様であろう。
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 ここは武蔵野台地の端で千束の谷が尽きるところにあたり、この湧き水は洗足池の源流にもなっているという。かつては用水として千束の谷の水田を灌漑していたそうだ。

 池の周囲には、いくつもの小さな祠が並んでいる。弁財天の他に、三社大口真大神、天圀蔵五柱五成大神、三徳大明神、天五色大天空大神、馬頭観世音、天大圀主之命と、あらゆる神様が揃っている。湧き水という神秘に、神様が集ってきたのだろうか。いつの頃から、こんなにたくさんの神様がいらっしゃるのだろうか。何とも不思議な空間であった。


 洗足池の源流ということは、ここから洗足池まで流路がつながっていたはずである。それを辿ってみたくなった。ここへ来るとき、片側の歩道が不自然に広い道を通って来た。それが流路跡ではないかと思う。

 清水窪小学校の西側を抜ける道に、その広い歩道が続いている。歩道へせり出すように伸びた木がある。かつては流れの上にせり出していたに違いないと思う。

 道に沿って行くと、線路にぶつかった。東急目黒線である。大岡山駅のすぐそばだ。直進できないので、いったん坂を上って跨線橋を渡り、また坂を下って行く。すると再び広い歩道のある道に辿り着いた。嬉々としてその道を行く。直角に交わる道のいずれもが、両側は上り坂になっている。つまりこの道は谷の底だ。水の流れがあったに違いないと確信する。
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 そのまま道に沿って行くうち、あれよあれよと言う間に洗足池公園へ着いてしまった。そして公園北側のグラウンド沿いで、流れはついに地上へ現れた。細い流れであるが、清水窪から続いてきた流れに違いないと思う。
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 水を辿って行くと、それは間違いなく洗足池に流れ込んだ。すると、そのすぐ近くには、また弁天様が現れた。以前に千束八幡神社を訪れたときにちらっと見た弁天様である。そのときは清水窪からの流れにはまったく意識がなかったが、池のこの場所に弁天様を祀っている理由が何となくわかったような気がしてきた。清水窪からの流れが注ぎ込むこの辺りは、洗足池の中でも水の「源流」と言って良い場所ではないだろうか。
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 洗足池から先も流路は続き、やがてそれは呑川に合流しているようだ。でも、今日の探索はここまでにしておく。清水窪から洗足池までスッと行き着いて、まさに溜飲の下がる思いであった。

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by ebara_explorer | 2007-09-27 12:36 | 水辺

碑文谷厳島神社

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 荏原には幾筋もの川の流れがある。その流れの源は、大きな池であったり、湧き水であったりする。そしてそうした水辺には、弁天様が祀られている。弁天様は水に関わりの深い神様である。正確に言うと、弁天(弁財天)は本来仏教の神様である。それが神仏習合により、日本の神である市杵島姫命や宇賀神と結び付いたものである。だから弁天様は、市杵島姫命や宇賀神が祀られている神社である。

 ところで、人が生きていくために、水は欠かせないものだ。それは荏原の歴史を遡っても同じことである。特に近世以降、荏原が農地として拓かれてからは、その必要性が増しただろう。荏原の歴史において、水の在り方を考えることは重要だ。今に残る弁天様はその水の尊さの表れでもある。

 現代では、水道の蛇口をひねれば水が滔々と流れ、それをそのまま下水に流している。飲み水は、近所のコンビニでペットボトルのミネラルウォーターを買ってくる。水がどこから来て、どこへ流れて行くか、人々の関心は薄い。そして今、荏原の川の多くは暗渠となった。遊歩道として流路が辿れるところはまだしも、いつしか住宅や街の中に埋もれてしまったところもある。だがそれらを掘り起こし、水の歴史を辿ってみたいと思う。合わせて、弁天様の信仰も見ていきたい。


 まず訪れた水辺は碑文谷池である。現在は池の周囲が碑文谷公園となっている。公園の真ん中すなわち池の真ん中の島には、厳島神社が鎮座している。厳島神社といえば広島の宮島がすぐに思い浮かぶが、その宮島の厳島神社も水辺の神であり、日本三弁天の一にも数えられている。弁天様と「厳島神社」は密接な関係にある。
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 碑文谷池の厳島神社も弁天様が祀る社である。その弁天様は、江戸時代に碑文谷を知行していた旗本神谷氏が奉ったものだという。だが現在、神社に弁天様はいないようだ。境内の案内板には、近くの碑文谷八幡宮に仮安置されていると書かれている。というのも三年前、この神社の拝殿・本殿・社務所が放火に遭ったからである。幸いにして現在は建物が再建されているが、弁天様が戻ってきているかどうかはわからない。それにしても放火とは、本当に心ないことをするものである。やはり現代は、水を尊ぶ心に欠けていると思う。

 この碑文谷池は、立会川という川の源流の一つであった。目黒区南部から品川区を経て、東大井で海に注ぐ立会川はかつて、農業用水として重要な水脈であったという。現在、立会川が流路として地上に現れるのは河口近くのほんの一部である。それ以外は道路あるいは遊歩道となっている。そして源流であるこの碑文谷池から円融寺付近までは、流れの跡を追うことさえ難しくなっている。池は孤立したような形になり、もはや立会川とは無縁なように見える。しかし、源流の碑文谷池の弁天様は、下流までも含めて、立会川の水すべてを守る神様であると言えるだろう。その尊さを忘れてはならないと思う。



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by ebara_explorer | 2007-09-19 23:45 | 水辺