カテゴリ:天祖神社( 2 )

上神明天祖神社

 八幡宮めぐり、お稲荷様めぐりに次いで、天祖神社めぐりもしてみたいと思う。

 先に訪れた上目黒天祖神社の項で説明したように、天祖神社と名の付く社は天照大神を祀る伊勢系の神社である。地図をめくって探したところ、荏原には今のところ十八の天祖神社が見つかった。これも荏原の信仰の一つの形であると言えよう。

 上目黒天祖神社に続いて訪れたのは、東急大井町線中延駅近くの上神明天祖神社である。
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 鳥居をくぐって境内に入ると、さっそく鳥居に関する案内板があった。それによると、大正時代に建てられた大鳥居は、戦争の空襲で境内の建造物や樹木が丸焼けになったにもかかわらず、唯一燃えなかったそうだ。現在の大鳥居は昭和四十九年(1974)に銅で建てられたものだという。鳥居についても案内板があるとはずいぶん丁寧だと思って境内の奥へ進むと、真新しい本殿の前には神社の由緒について詳しく書かれた案内板もあった。
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 その由緒によると、この天祖神社の創建は鎌倉時代にまで遡るようである。文永八年(1272)に北条重時の五男時千代がこの辺りの蛇窪を領するところから話は始まっている。鎌倉時代が出てきたので、中世に興味のある私はわくわくしてきた。

 その時千代は後に出家して法圓上人となり、大森に厳正寺という寺を開くが、家臣たちの多くはこの蛇窪に住したという。その後、元亨二年(1332)に大旱魃が起きた。そのとき厳正寺の当主であった法圓上人の甥法密上人は、厳正寺の北西にある龍神社に雨乞いの断食祈願をして雨を降らせたそうだ。これに感激した時千代の家臣たちが蛇窪にも神社を勧請し、祀ったのが天祖神社のそもそもの起こりであるという。

 天照大神を祀る天祖神社であるが、由緒を読んでいくと水に関わりの深いことがわかる。そう思っていると、本殿の右脇に弁天社があった。この弁天社は、荏原七福神の一つにもなっていた。
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 弁天社のいわれが書かれた案内板を読む。それによると鎌倉時代、本殿の左手に清水の湧き出る洗い場があり、そこに白蛇が住んでいたという。ところがいつの間にか洗い場がなくなってしまったため、白蛇は土地の旧家森谷氏の夢枕に出て、一日も早くもとの住処に戻れるようにしてほしいと訴えたそうだ。森谷氏がこの話を社の宮司に伝えたところ、宮司は元の場所に池を掘り中央に小島を作って石祠に白蛇を祀ったとのことである。これが弁天社の始まりというわけである。弁天社は現在本殿の右側に移っているが、これは戦後に移されたとのことであった。

 池に白蛇が関わっている例は、世田谷の奥沢にあった弁天池のところでも出てきた。弁天様に白蛇は付き物である。そんなことを考えながら奥の石祠へ参ると、そこには白蛇が何匹もいた。
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 また、弁天社の手水鉢のところには白い龍がいた。白い龍も水辺にまつわる伝説にはよく現れるものだ。
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 本殿の前に戻ると、参道の脇にはお稲荷様もいらっしゃった。祠の前に「伏見稲荷大神」という幟が並んでいた。
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 こちらには白い狐様がいた。
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 上神明天祖神社には、蛇、龍、狐がいらっしゃって、なかなかに賑やかな社であった。天祖神社とは言うものの、その由緒にはやはり水に対する信仰が深く関わっていた。改めて荏原における水の信仰を知ることができた。



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by ebara_explorer | 2008-01-19 13:24 | 天祖神社

上目黒天祖神社

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 天祖神社という名の神社は、地図で良く目にする。荏原にも、八幡神社ほどではないにせよ数がある。これはもともと、伊勢神宮の天照大神を祀っていて伊勢宮とか神明宮とか呼ばれていた神社が、明治になって改称させられたもののようだ。

 中目黒の文化財めぐりで訪れた上目黒の天祖神社もその一つで、もともと神社のある地は「伊勢森」と呼ばれており、また周辺は「伊勢脇」という地名であったそうだ。

 駒沢通りに面した社に着いて驚いたのが、参道に自動車が並べられていることである。参道が駐車場になっているためだ。郷土史家の先生によれば、神社が社殿の修理費用などの収入を得るために仕方のないことだそうだ。お祭りのときだけ、車は置かない契約になっているという。

 境内の奥にある小さな社殿は、昭和八年(1933)の創建であるという。社殿のすぐ左には、かつて姿の良い黒松があり、遠くからも目印になるほどで大きなものであったそうだ。
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 境内の裏手は公園になっていた。これは区が買い取って公園にしたもので、そのことによって神社周辺は木の多い地区になったのだという。また、公園のさらに裏手は崖になっており、昔は崖下が泉でホタルが飛び交ったりしていたと、郷土史家の先生は懐かしげに話していた。かつての荏原の風景が私にも浮かんできた。

 境内には他に、庚申塔が二基あった。ともに青面金剛と三猿が彫られたものだ。一方は宝永五年(1707)の年号、もう一方は享保元年(1716)の年号が刻まれており、享保の年号を持つ塔は道標にもなっていたという。道標の銘は「是より末町さき四辻、大道九品仏道、右せたかい道、左ふとう道」とあるそうだ。
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 この庚申塔はもともと、駒沢通りを少し西へ行ったところにあったと、郷土史家の先生はおっしゃっていた。例の庚申みちとの交差点辺りにあったそうだ。道をまっすぐ行けば九品仏、庚申みちを右に行けば世田谷、左に行けば目黒不動ということになり、先に伺った庚申みちの道筋と一致する。昭和十五年(1940)に、駒沢通りがオリンピックの準備のために拡張された折にここへ移ってきたという。それまで駒沢通りは、祐天寺の先で大きく左へそれていたそうだ。

 天祖神社の裏手を北に向かい、なだらかな坂を下りていくと目黒銀座商店街に出る。ここにある目黒銀座観音が文化財めぐり最後の見学地であった。目黒銀座観音は大正時代に勧請されたものである。かつてこの中目黒には、小規模の乳牛牧場や馬力運送業者が多かったため、馬頭観音を勧請したのだそうだ。商店街を門前町として発展させるという意図もあったという。

 この後、中目黒GTプラザまで歩いて、文化財めぐりは解散となった。独りで歩いていてはわからないことを、いろいろと知ることができた。この荏原をめぐる旅の一環として、機会があればまた参加してみたいと思う。

(写真は後日再訪して撮影したものである)



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by ebara_explorer | 2007-11-14 23:09 | 天祖神社