カテゴリ:名所江戸百景( 7 )

広重「名所江戸百景」の世界

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 川崎市市民ミュージアムで開かれている「広重「名所江戸百景」の世界」展に行ってきた。これは、歌川広重の描いた『名所江戸百景』全百二十点を一堂に取り揃えた展覧会である。

 この展覧会で特徴的なことは『名所江戸百景』の展示順である。通常、四季の別や制作年代順に並べられることの多い『名所江戸百景』であるが、ここでは地域別に並べられていた。それも現代の行政区画に沿った分け方である。これは「庶民から見た江戸の名所とその広がりという観点から、御府内からその外へと、名所の拡大に視点をおいて」いるためであるという。

 そのため、私が興味を抱いている荏原の中の『名所江戸百景』を探すのは容易であった。すなわち、品川区の四景、大田区の四景、目黒区の五景がこれに当たる。百二十点すべてを詳細に見学するのは大変であるため、私はこの十三景を特にしっかりと眺めることにした。

 ただ、厳密に言うと荏原は江戸ではない。そのことは、展示の最初に示してあった「江戸府内朱引図」からも窺えることである。それを見ると、現在の品川区・目黒区・大田区・世田谷区は江戸の範囲から外れている。品川宿も江戸の外ということになっている。それでも、十三景も荏原の地が描かれているということは『名所江戸百景』が実際の江戸よりも広い範囲を対象としていたことがわかる。

 さて、まずは品川区の四景をじっくりと眺めた。品川区に当たるのは「品川御殿やま」「月の岬」「品川すさき」「南品川鮫洲海岸」の四景である。このうち、三つには海が描かれている。品川区の四景のポイントはやはり海であると言える。海の描かれていない「品川御殿やま」も、海沿いにある名所として知られているところだ。

 ところで、この「品川御殿やま」では、幕末の台場建造のために土砂が削られたところが描かれている。一方の「品川すさき」では、すでにあったはずの台場を描いていないという。これは「品川すさき」を景勝地として描くため、広重が意図的にその存在を消したのだそうだ。二つの絵を対比してみると面白い。

 次いで、大田区の四景を眺めた。大田区に当たるのは「蒲田の梅園」「八景坂鎧掛松」「はねたのわたし弁天の社」「千束の池袈裟懸松」の四景である。ここでは梅や松といった木が印象的だ。特に松の名所は二つもある。

 また、残りの一つの「はねたのわたし弁天の社」は『名所江戸百景』の南端に当たるという。ここは江戸からかなり外れた位置にあるが、江戸の人たちにも名所として良く知られていたのだろうか。

 最後に、目黒区の五景を眺めた。目黒区に当たるのは「目黒新富士」「目黒元不二」「目黒千代が池」「目黒爺々が茶屋」「目黒太鼓橋夕日の岡」の五景である。ここで印象的なのは、やはり富士山の眺めである。五景のうち「目黒新富士」「目黒元不二」「目黒爺々が茶屋」の三景に富士山が描かれている。しかも二箇所には富士塚がある。また、富士山の描かれていない「目黒千代が池」も、高台に上れば富士山の見える名所であったという。目黒の地は、江戸から富士山を見る名所の西端であったと言える。いずれも目黒川東岸の高台からの眺めである。

 それから「目黒千代が池」を初めとして「目黒新富士」と「目黒元不二」にも桜が描かれている。この辺りは富士見の名所であると同時に桜の名所であったことも窺える。

 残りの一つの「目黒太鼓橋夕日の岡」も目黒川に架かる橋である。目黒川辺りはかろうじて「江戸」と認識されていたということであろうか。ただ、この「目黒太鼓橋夕日の岡」だけは雪景で、目黒区の五景の中でもちょっと異彩を放っている。白い雪の中に流れる藍色の川面が印象的だ。広重の絵では青や藍が特徴的で、海外からも「ヒロシゲブルー」と呼ばれて賞賛されているそうだ。

 さて『名所江戸百景』全体を通して見てみると、他の場所に比べて荏原の十三景は寂しい印象があった。品川区の四景からはかろうじて品川宿の賑わいが感じられたが、大田区の四景と目黒区の五景は人も建物もまばらで、何とものどかな様子が窺えた。それが「江戸」における荏原の位置づけなのかもしれないと思った。

 この『名所江戸百景』は私が大好きな浮世絵である。何度見ても飽きない。すでに荏原の中の『名所江戸百景』についてはいくつか巡っているが、今年は残りの地についても巡り、十三景を完遂したいと思っている。



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by ebara_explorer | 2009-01-11 18:14 | 名所江戸百景

八景坂鎧掛松

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 大森駅の西口を出ると、目の前が池上通りである。この通りは江戸時代には池上道と言われていた。品川から本門寺のある池上まで通じる古道である。かつては東海道の一部であったとも言われている。

 駅前の池上通りは坂道になっているが、この坂を八景坂という。昔は相当な急坂で、雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研(やげん)のようになったため、薬研坂と呼ばれていたそうだが、坂上の眺望が良いため名所として知られるようになり、また江戸時代にこの辺りの八景を選んだことから八景坂と呼ばれるようになったようだ。

 坂上の眺望は安藤広重の『名所江戸百景』にも描かれている。題して「八景坂鎧掛松」である。荏原にある『名所江戸百景』の一つだ。鎧掛松というのは、八景坂の坂上にあった大きな松のことで、源義家が東征の際に鎧を掛けたことからその名があるという。荏原にある八幡神社創建の由来に度々名前の出てくる源義家だが、この松の名の由来にも登場してきた。

 安藤広重の描いた「八景坂鎧掛松」を見ると、形が良く背の高い松の木を手前に配し、背景には、近くに海辺の東海道を見下ろし、遠く海の向こうには房総の山々を望むという画になっている。松のある坂上には茶店らしきものがある。松越しに開ける海の眺望が印象的だ。

 現代の八景坂は、大森駅前のごみごみした繁華街で、眺望も何もあったものではない。歩道には自転車があふれ歩きづらい。また、坂はそれほど急ではなく、薬研坂と呼ばれた面影もない。

 そんな中、坂の途中にある大森駅西口の向かいに、こんもりとした杜がある。天祖神社である。源義家が戦勝祈願をした社とも伝えられている。木々が鬱蒼としてひっそりとした境内は「八景坂鎧掛松」の描かれた時代の雰囲気を多少なりとも残しているように思われた。
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 神社の急な石段の途中に、句碑がある。碑には「鎌倉の よより明るし のちの月 景山」という句が刻まれている。
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 また、裏側には八景坂からの眺望である「笠島夜雨・鮫洲晴嵐・大森暮雪・羽田帰帆・六郷夕照・大蘭落雁・袖浦秋月・池上晩鐘」の八景の名が書かれているという。

 往時、急坂を上り切ったときに現れる眺望は、坂を懸命に上って来た人たちにとって疲れを癒すものであっただろう。現代の東京には、そのように眺望が開けるところはないように思う。もっとも、高いビルや塔の展望台に上れば話は別だが、そういうときはたいていエレベータで上がってしまうので、自分の足で上がるという苦労はない。八景坂を上り切ったときの、胸の空くような開放感を味わってみたかったものである。



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by ebara_explorer | 2008-10-28 17:01 | 名所江戸百景

目黒千代が池

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 荏原の「名所江戸百景」の中で、もう一ヵ所桜の時季に訪れておきたいところがあった。それは「目黒千代が池」である。先の「品川御殿やま」と同じように、桜の風景が描かれた場所である。そこは現在の目黒駅北側の台地にあたる。かつては千代が崎という地名であった。

 この「目黒千代が池」の風景は実に良い。段々になった滝が千代が池に流れ込みその周囲にひっそりと桜が咲いている。千代が池の名は、南北朝時代の武将新田義興の侍女千代に由来するとされている。千代は新田義興が正平十三年(1358)に足利基氏・畠山国清らに矢口渡で謀殺されてしまったとき、悲しみの余りこの池に身を投げてしまったという。そんな伝説もあって、この桜の名所は「品川御殿やま」と違い、何かしっとりとした感じを受ける。

 この千代が崎の辺りは、江戸時代になると、島原藩主松平主殿頭の下屋敷になったという。中でも千代が池のあるところは特に景色が良く「絶景観」と名付けられていたそうだ。また、台地の上からは西側に富士山、東側には品川の海も見えていたという。

 現在の千代が崎は、目黒駅近くの建て込んだところで、ビルやホテルや住宅が並び、もはや「絶景観」のかけらもない。それでもかつて千代が池のあったところとされる東京都教職員研修センターの敷地内には、あまり観る人もない桜が何本かひっそりと咲いていた。それがかろうじて「絶景観」の名残ではないかと思うことにした。

 東京都教職員研修センター前の道は西へ向かう下り坂になっている。かつては富士山も望めたのであろうが、今は坂下の目黒川の水面も見えないほど建物が視界を阻んでいる。

 坂を下りて道なりに目黒川沿いに進むと、田道橋に至った。この橋を挟んだ両側には川に沿って桜並木が続いていた。枝が川面にせり出したさまは、絶景観というほどではないにせよ、なかなか見事な咲きぶりであった。

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by ebara_explorer | 2008-04-24 17:17 | 名所江戸百景

品川御殿やま

 安藤広重の「名所江戸百景」は、四季の風景に分けて描かれている。中でも、春の風景に属するものは、桜咲く風景を描いたものが多い。荏原の中の「名所江戸百景」にも、何枚かに桜の花を見ることができる。そのうち最も有名な桜の名所といえば「品川御殿やま」であろう。この「品川御殿やま」を、桜咲く時季に訪れてみた。

 品川御殿山は北品川にある。徳川家康が江戸に入国した際、御殿を築いたので御殿山と呼ばれるようになったそうだ。その後、江戸の中でも桜の名所として知られるようになった。八代将軍徳川吉宗や十一代将軍徳川家斉が桜を植えたことによるという。

 見晴らしの良い御殿山からはかつて、品川の海を眼下に見ることができたということである。はるか房総の山々を背後にして、その前を行き交う帆掛け舟の白帆が花の散るように見えたそうだ。そんな眺めもあって、各地から花見客が集まるようになり、酒を飲みながら大いに騒いでいたという。

 今、御殿山の地には「御殿山ヒルズ」と称される立派な高層建築がドンと構えている。その高い建物の足元に、わずかばかりの庭園があって、幾本かの桜が咲き揃っていた。御殿山の桜の名残であろう。ただ、小洒落た庭園はどこかよそよそしくて、江戸時代のように宴会をするようなところではなかった。
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 また、大崎から続く御殿山通りにも桜並木があって、こちらも立派に咲き揃っていた。
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 御殿山ヒルズからすぐ海側は、何本もの線路が横切っている。かつては海を行く帆掛け舟を見渡せたというが、今はひっきりなしに行き交う電車を眺めることになる。そんな中、西へと向かう新幹線に、ふと旅情をそそられた。



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by ebara_explorer | 2008-04-15 17:14 | 名所江戸百景

蒲田の梅園

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 荏原における安藤広重「名所江戸百景」をめぐる旅のうち、どうしても今の時期に訪れておきたいところがあった。それは「蒲田の梅園」である。この絵は梅の咲く頃のものである。そこで梅の咲いている頃にその地を訪れてみたかった。二月も末日の迫った今日、その「蒲田の梅園」を訪れてみた。描かれた「蒲田の梅園」は現在も存在している。

 東海道の沿道にある蒲田の地は古くから梅の木の栽培が盛んで、梅干が名産にもなっていた。そのうち梅の花が鑑賞されるようにもなり、江戸時代には亀戸と並んで梅の名所として知られるようになったという。中でも有名だった梅園が、東海道筋で「和中散」という道中常備薬を売る山本久三郎の庭園であった。そこには近在から梅の木を集めて植えるとともに池が造られ、茶屋も設けられたので、人々が集まり大いに賑わったそうだ。「名所江戸百景」に描かれた梅の風景も、この山本久三郎の梅園であるとされている。この梅園の一部が現在、梅屋敷公園として整備されている。まさにそこが「名所江戸百景」の地ということになる。

 京浜急行梅屋敷駅で下車し、第一京浜国道沿いに出て、少し南へ行ったところに梅屋敷公園はある。山本久三郎の庭園はかつて三千坪もあったと言われるが、公園はさして広くなかった。また、東側が国道に面して車の喧騒の中にあり、しかも西側は京浜急行の立体化工事のため一部の用地が占用され、白い工事用フェンスが立ち並ぶというさまであった。

 その間のわずかな隙間に、梅の木が並んでいた。早咲きの二、三本が花を揃えているほかはまだ五分咲きといったところで、公園全体として咲き揃うにはまだ間があるようであった。
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 園内の中央には池があった。しかし、申し訳程度に水溜りができているのみで、風流を楽しむには程遠い状況であった。

 また、梅の背景にも、大きなビルや線路工事用の機材が入ってしまい、雰囲気は残念ながら良くなかった。それでも「名所江戸百景」の景色が、かろうじて残っているのを良しなければならないだろう。
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 かつては東海道を行く旅人たちが、花の色香に足を留めたに違いない。まだ寒い今くらいの時期にあって、旅人たちは春の訪れを梅の花から感じたことであろう。



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by ebara_explorer | 2008-02-28 17:16 | 名所江戸百景

はねたのわたし弁天の社

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 玉川弁財天の前から多摩川の堤防に沿って上流へ歩いた。この辺りの川岸には釣り船や屋形船が何艘も係留されている。それを横目にしながらしばらく歩いて行くと、橋が見えてくる。首都高速横羽線の大師橋と、その向こうにもう一つ、産業道路の大師橋がある。横羽線大師橋をくぐり二つの橋の間に入れば、その辺りはかつて、渡し船が通っていたところだ。これは羽田の渡しと呼ばれ、あの「名所江戸百景」に描かれている場所である。

 川沿いの道端に、大田区の建てた碑があった。それによると、羽田の渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていたそうだ。渡し場付近の川幅は約40間(80m)くらいで、対岸から「オーイ」と呼ぶと聞こえるくらいであったという。

 ここを行き来していた船は二、三十人が乗れるほどの大きなものだったそうで、人間のほかに魚介類、農産物、衣料品など生活に必要な物資も運ばれていたということである。

 この渡しはまた、江戸から川崎大師へ参詣するときの要路でもあったそうだ。川崎大師参詣の道程は通常、東海道をまっすぐ行き、六郷の渡しで多摩川を越え川崎宿に入っていた。しかし、東海道を途中の蒲田の先で左折し、のどかな風景の中を歩いて羽田の渡しに出る道筋が次第に多くの人に利用されるようになったとのことだ。この道程では川崎宿を通らないため、川崎宿からは商売に差し支えるので羽田の渡しの通行を禁止してほしいという訴えが出るほどであったという。

 羽田の渡しは、昭和14年(1939)に大師橋がかかるまで運航されていた。今は横羽線の大師橋もできて、大きな橋が二つもある。こんな立派な橋が二つもあれば、渡し船など出る幕もないなと思った。

 さて、かの「名所江戸百景」の羽田の渡しは「はねたのわたし弁天の社」と題して、玉川弁財天とセットで描かれている。玉川弁財天は、河口に突き出た小さな島にちょこんと存在している。島の先の方には常夜燈もぽつんと見える。何とも心細いところだ。そして、手前には渡し船を漕ぐ人の足と櫓、綱が三角形を描く構図になっている。

 現代の羽田の渡しは、東京都側から伸びる二つの橋が、対岸の神奈川県側で交差するようになっている。実際は横羽線の高架下に産業道路が入る形となるのだが、二本の橋と川の流れが三角形を形作っている。これが現代版「はねたのわたし」の三角形だな、と私は思った。
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(最初の写真は大田区が建てた碑のレリーフである。)



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by ebara_explorer | 2008-02-23 14:25 | 名所江戸百景

目黒元不二

 浮世絵が好きである。と言っても、美人画ではない。風景画の方である。安藤広重の描く「東海道五十三次」などは子供の頃から良く眺めていた。見ているだけで当時の旅に出ているような気分になって、ワクワクしてくるものである。

 安藤広重の作品で、その「東海道五十三次」と双璧をなすのが「名所江戸百景」である。江戸時代の江戸の町における「名所」が描かれている。馴染みの多い場所が描かれているだけに、こちらも昔から良く眺めていて私のお気に入りだ。特に都内ではこの「名所江戸百景」の展覧会が開かれることも多く、それにも何度となく足を運んでいる。

 さて、この「名所江戸百景」に限らず、江戸という地名はどこを指しているのだろうか。江戸というのは江戸の「町」である。徳川時代に将軍が拠とした城下町のことを指すと言って良い。それは現在の東京23区より狭い範囲である。特に西側の大半は近郊の農村で、そこは江戸ではないと言える。だから、今私がフィールドとしている荏原も、そのほとんどが江戸ではないことになる。この旅は「江戸ではない東京の旅」だと思っている。もっとも、厳密に言うと、かつての荏原郡は現在の港区や千代田区の一部までを含んでおり、そこはまさに江戸の只中であるわけだが、私はあえてそこをフィールドとはしていない。

 だから「名所江戸百景」に描かれた場所も、ほとんどが私のフィールド外なのだが、何枚かは範囲内に入ってくる。わずかに江戸の町に手が届きそうな目黒の東側の部分がいくつかと、東海道沿いの名所である。東海道沿いも、品川宿を過ぎれば江戸と言ってよいかどうかわからないが、「名所江戸百景」には何箇所か含まれている。そんな範囲内の「名所江戸百景」の地をめぐってみようと思う。さすがに百もあると全部回るのは大変だし、それだけでブログの一テーマになりそうなものであるが、数えてみると範囲内にあるのは十一箇所だったので、この旅の新たなテーマとして取り上げるにはちょうど良い数であった。


 さて、最初に訪れたのは「目黒元不二」である。この「目黒元不二」は、富士信仰の様子を描いたものである。江戸時代に広まった富士信仰では、手軽に富士山の崇拝ができるよう、身近な場所に小さな山を築き、それを信仰の対象としていた。富士塚などと呼ばれるものである。

 目黒元不二は、東急東横線中目黒駅の近くにあったものだ。目切坂という急坂沿いに位置していた。
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 文化九年(1812)に上目黒村の富士講の人々が築いたもので、高さは12メートルもあったという。山には九十九折の道が設けられ、山頂には浅間神社の石宮が祀られていたそうだ。後の文政二年(1819)に新たな「富士」が中目黒に築かれたため、こちらは「元不二」と呼ばれるようになったとのことである。 

 富士講は明治になると衰え、明治十一年(1878)には「元不二」の鳥居や石宮が取り壊され、昭和十八年(1943)には講の碑石が他所へ移されてしまったという。現在、この「元不二」の跡には巨大なマンションが建てられている。鬱蒼とした目切坂沿いに建つ、一際鮮やかなマンションである。
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 「名所江戸百景」の画を見てみると、「元不二」の彼方には本物の富士山が良く見えている。西側に開けた目黒川の急な傾斜である。その跡に建つマンションからは今も富士山が望めるのだろうか。マンションの住人でもない私は、周囲からその建物を恨めしく眺めるしかなかった。



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by ebara_explorer | 2007-11-18 16:03 | 名所江戸百景