カテゴリ:八幡宮めぐり( 34 )

磐井神社

e0123189_16591985.jpg

 京浜急行大森海岸駅近くに磐井神社という社がある。電車の車窓からも良く見えて、気になる神社ではあった。

 この磐井神社は鈴ヶ森八幡宮とも呼ばれた。今でも社の南側を東西に走る通りを八幡通りという。ということはこの社も、私の八幡宮めぐりの一つに加えなければならないということである。

 社伝によれば、創祀は敏達天皇二年(573)八月であるという。また、境内の案内板によると『三代実録』の貞観八年(859)に「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあるそうで、また武蔵国の八幡社の総社に定めたという。他に「延喜式神明帳」にもその名があるそうだ。

 かなり古い由緒をもつ社であることがわかるが、荏原の他の八幡宮と比べてみると格段に歴史を遡るものである。他の八幡宮が、平安時代中期以降宇佐八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものであることを考えると、果たしてこの神社だけがそんなに古くから八幡宮として存在したのかどうか、疑問の残るところである。

 時代は下って戦国時代の永正年中(1504~1521)に兵火で焼失したそうだが、江戸時代になると徳川家将軍の参詣の記録があるようだ。享保十年(1725)には徳川吉宗による造営があったことも知られている。

 そうした由緒のある磐井神社であるが、現在の境内を訪れてみると、第一京浜国道と京浜急行の高架線に挟まれて、小ぢんまりとした感じだ。また、車の往来はもちろん、電車も頻繁に通り、なかなか騒々しい場所である。

 社殿の北側には稲荷神社、南側には弁財天が鎮座していた。

 お稲荷様は海豊稲荷神社という名であった。境内が海に近かったことを窺わせるものである。
e0123189_16595278.jpg

 弁財天は笠島弁財天という。万葉集に「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつ君が山路越ゆらむ」という歌があるが、ここに出てくる笠島がこの弁財天のことを指しているという説もあるそうだ。今は池の中島に小さな祠が祀られているだけで、ひっそりとしている。かつては海に近かっただろうから、この弁財天も海の神として祀られたものであろうか。
e0123189_1702275.jpg

 神社には他に、非公開であるが、鈴石・烏石という石があるそうだ。鈴石は打つと鈴のような音がしたことからこの名があり、鈴ヶ森の地名の由来となったと伝えられるものであるが、社伝によれば延暦年間(782~806)に武蔵国司であった石川氏が寄進したもので、神功皇后ゆかりの石であるとされている。これまた古い話である。烏石の方は、烏の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家松下烏石が寄進したものだそうだ。

 また、境内を出た歩道のところに「磐井の井戸」というものがある。もともと境内にあったものだが、第一京浜国道が拡幅した際に、境域が狭められ、境内から出る形になってしまったのだという。これは古い井戸で、かつては東海道の旅人に利用され、霊水、薬水と称され古来有名だったそうである。土地の人々によれば、この井戸水を飲んだとき、心が正しければ清水、心が邪ならば塩水になるとの言い伝えがあるそうだ。井戸が神社の名前の由来にもなっているから、弁財天と合わせてこの社は水辺の神であるとも言えるだろう。

e0123189_170463.jpg



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-11-30 17:01 | 八幡宮めぐり

徳持神社

e0123189_10213698.jpg

 大田区池上に徳持神社という社がある。境内の由緒書きによれば、創建は鎌倉時代の建長年間(1249~1255)だそうで、宇佐八幡宮の分霊を勧請したものであり、御旗山八幡宮と称されていたという。つまり、元を糺せばこの神社は八幡神社であり、私の荏原の八幡宮めぐりの中に入れて良いものだと思う。それにしても御旗山八幡宮とは格好良い名前だ。鎌倉時代だから、土地の武士が勧請したものであろうか。鎌倉時代以降だと、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請する例が多いように思うが、本家の宇佐八幡宮から直接勧請してきたというのは珍しい。

 なお、元は現在の池上七丁目辺りに鎮座していたそうだが、明治三十九年(1906)に池上競馬場が作られることとなったとき、現在地に移転することとなり、その後近くの稲荷神社を合祀したことから徳持神社と称するようになったという。

 しかし、朱塗りの立派な社殿を見てみると、他の八幡神社でよく見るような様式であった。実際、境内の由緒書きによれば、社殿は八幡造という様式とのことであった。
e0123189_10215432.jpg

 また、境内の隅には徳持田中稲荷神社というお稲荷様が鎮座していた。これは徳持神社の末社であり、移転に当たって合祀されたものとはまた別のお稲荷様であるようだった。

e0123189_10221133.jpg


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-11-07 10:22 | 八幡宮めぐり

子安八幡神社

e0123189_2021784.jpg

 浦守稲荷神社から産業道路に戻ってさらに南下すると、呑川に行き当たる。この川の少し上流に八幡神社が鎮座している。子安八幡神社という。同名の神社は呑川のさらに上流の大田区仲池上にもあった。子安には安産や子の成長を願うような意味があるのだろうか。
e0123189_2024075.jpg

 こちらの八幡神社は、社伝によれば室町時代の応永年間(1394-1428)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建されたもので、旧下袋村の村社であるという。また江戸時代になると、下袋村と麹屋村を領した代官小泉氏の氏神ともなったそうだ。小泉氏は、初代次太夫吉次が六郷用水を開削したことで知られている。

 境内の南側には古い鳥居が残っている。これは安永三年(1774)に、この神社の氏子たちが、小泉氏六代目藤三郎包教の武運長久を祈って奉納したもので、大田区内最古の明神型鳥居であるという。背は低いが、どっしりとした構えに歴史を感じさせる石鳥居であった。
e0123189_2025733.jpg

 境内にはほかに、末広稲荷というお稲荷様が祀られていた。

e0123189_2031381.jpg



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-10-15 20:04 | 八幡宮めぐり

大森中の八幡神社

e0123189_18191373.jpg
 蒲田の梅園で訪れた京浜急行梅屋敷駅を再び訪れた。駅前から第一京浜を渡って商店街を東へ向かう。その商店街の途中で、少し南へ入ったところに八幡神社がある。住宅街の中の小さな社だ。

 鬱蒼とした短い参道の先に、小ぢんまりとした社殿があった。ここは何という名前の八幡神社なのか、わからない。鳥居の額にはただ「八幡神社」とあるのみで、境内には由緒書きも見当たらない。旧東海道に近いところだから、昔は参詣の人が多かったのかもしれないが、今はひっそりとした神社である。
e0123189_181937100.jpg

 参道を戻ると、途中に稲荷神社があった。名を「火伏稲荷」という。珍しい名前のお稲荷様だ。防火の意味があるのだろうか。

e0123189_18195231.jpg




にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-09-11 18:21 | 八幡宮めぐり

鮫洲八幡神社

e0123189_18594593.jpg

 京浜急行の鮫洲駅を出るとすぐのところに、小さな八幡神社がある。鮫洲八幡神社という。旧東海道の鮫洲商店街沿いから少し奥まったところだが、かつての街道に面していると言ってよいだろう。

 鮫洲八幡神社は、創建の年代は定かではないが、江戸時代初期の寛文年間(1661~1672)にはすでにあったそうだ。この辺りの旧町名である御林町の総鎮守であったとされている。御林町には御林浦があり、ここは品川浦と並ぶ漁場で、江戸城御用の鮮魚を納める御菜肴(おさいさかな)八ヵ浦の一つであったという。だから御林町は漁師の町であったといえる。本殿前の狛犬の台座に「町内猟師中」と見えるが、この「猟師」は「漁師」を指すのであろう。漁師の信仰が厚かった八幡神社だと言える。
e0123189_190530.jpg

 境内の南側には池があり、真ん中に小さな祠があった。弁天様が祀られているのではないだろうか。そして池のほとりには厳島神社と水神社があった。いずれも水の信仰にまつわるものであるが、その水とはつまり海に対する信仰であろう。これらの神様も、漁師の信仰が厚かったのではないかと思う。実際、水神社の方は正式には漁呉玉(なごたま)神社というそうだ。いかにも漁業に関わりのありそうな神様であった。
e0123189_1902476.jpg

 他に境内には稲荷神社もあり、こちらは「出世稲荷」という名であった。
e0123189_190478.jpg

 鮫洲は今ではだいぶ海岸から離れた地域になってしまったが、かつては海に近いところであったはずである。その名には「鮫の揚がった洲」という由来もある。そんな地名のことや、海に対する信仰の名残を目にしていると、境内には潮の香りがただよってきそうで、今まで見てきた八幡神社とはちょっと違う雰囲気であった。



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-09-04 19:01 | 八幡宮めぐり

太子堂八幡神社

e0123189_15294683.jpg

 駒留八幡神社から、環七通りが世田谷通りと交差する若林を過ぎ北東へ向かい、烏山川の流れを過ぎると、八幡神社がもう一つある。太子堂八幡神社という。太子堂はこの辺りの地名にもなっているが、これは円泉寺という寺に聖徳太子が祀られているところから来ている。その円泉寺は、かつて太子堂八幡神社の別当寺でもあったようだ。

 住宅街の中にある太子堂八幡神社は、環七通りからも世田谷通りからも離れており、静かなところであった。また、境内の木々は背が高く、歴史を感じさせる杜であった。

 本殿は、駒留八幡神社のものよりも、さらにどっしりとした構えであるように思われた。
e0123189_15301490.jpg

 そして本殿脇にはやはり、稲荷神社が祀られていた。
e0123189_15303216.jpg

 さて、この太子堂八幡神社の由緒であるが、本殿脇に立派な案内板があった。それによると、先の円泉寺開基の縁起には、文禄年間(1592~96)に創祀されたとあるという。しかし、それよりはるか以前の平安時代、源頼義・義家父子が安倍氏征討のため陸奥へ向かう途中にこの地の八幡神社に武運を祈ったという伝えもあるそうだ。つまり、そのときにはすでに八幡神がこの地に勧請され、祀られていたということである。

 ところで、源頼義・義家父子に関わる言い伝えは、別の八幡神社にも出てきた。世田谷区尾山台の宇佐神社と、大田区東六郷の六郷神社である。いずれも安倍氏征討に向かう源頼義・義家父子が武運を祈ったというものである。

 両社にこの世田谷区太子堂の太子堂八幡神社という三点を地図上に思い浮かべると、いったい源頼義・義家父子の行軍はどのような道を辿ったのか、皆目見当が付かなくなる。本当に源頼義・義家父子は、それぞれの場所を通ったのだろうか。

 ただ、太子堂八幡神社の言い伝えには続きがある。この太子堂五丁目付近の旧太子堂上本村一二一~一二二番地を土器塚と呼ぶそうだが、そこは源頼義・義家父子が行軍の折、軍勢に命じて休憩を取りここで酒宴を張った後、土器(かわらけ)を埋めたことに由来するという。また、土器塚に続く塚を同勢山と呼ぶそうだが、これは同勢を憩わせた名残であるという。

 そのような言い伝えを読むと、いかにもここを源頼義・義家父子の軍が通り過ぎたように感じられる。しかも、神社西側の道は鎌倉道と呼ばれているそうだ。確かにその道を北へ辿って行くと現在でも通りの名が「鎌倉通り」となっていて、下北沢方面へ通じている。これは鎌倉時代になってから、鎌倉街道の一つとなっていたことがその由来と思われるが、鎌倉時代以前から通じていたとも考えられる。とにかく古い道であることは確かだ。

 源頼義・義家父子がここを通ったという確証は持てないが、その頃よりここに古道があり神様が祀られていたというところまでは、大いに考えられることである。



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-03-18 15:31 | 八幡宮めぐり

駒留八幡神社

 八幡宮めぐりとして、荏原に見つけた八幡神社のうち、すでに半分以上の二十社あまりをめぐった。今年のうちには、残りの八幡神社も訪れたいと思う。そこで残った社のうち、まずは比較的家から近いところへ行ってみることにした。

 環七通りが玉川通りと交差する上馬から北へ向かうと、通りは下り坂となる。下りきったところが駒留陸橋である。ここでは蛇崩川という小さな川を跨いでいる。そこから若林へ向かう途中の左手に八幡神社がある。駒留八幡神社という。
e0123189_16175528.jpg

 境内は環七通りから少し入ったところにあるが、鬱蒼とした杜の中に入っても環七通りを通る車の音が気になる。

 この神社の由緒は、鎌倉時代にまでさかのぼる。祀られている神像の背面にある銅板に、北条左近太郎入道成願という人物が徳治三年(1308)に奉納した旨が刻まれているからである。また境内からは、同年にやはり北条左近太郎入道成願が奉納したことを記す経筒が発見されているという。これは江戸時代に当地を知行した旗本大久保忠誠が、天和二年(1682)に社殿の寄進と石段の修理をした際に見つかったものだという。 

 神像や経筒の銘があるということは、その歴史が鎌倉時代までさかのぼることは確かなことのように思う。こういう歴史が身近にあると、わくわくしている。

 ところでこの北条左近太郎入道成願は、鎌倉時代に当地を領していた人物とされている。言い伝えによると、北条左近太郎入道成願が八幡宮を勧請しようとしていたとき夢に八幡神が現れ「私を祀るところは愛馬に聞け」と言われた。そこで翌朝愛馬に乗って自由に歩き回らせたところ、当地で立ち止まったのでここへ社を建てたとという。そこから「駒留」という名が来ているそうだ。

 大きな松の木を手前に配した本殿に参る。八幡神社というと朱塗りされている社殿が多いが、ここの本殿は素木であった。それがかえって社殿全体をどっしりとしたものに感じさせていた。
e0123189_16182569.jpg

 本殿の左奥へ行くと、この八幡神社にもやはり稲荷神社があった。
e0123189_16184226.jpg

 また、八幡神社の祭神には天照大神も含まれていて、天祖神社が合祀されているようである。

 さらにその奥には、弁財天が祀られていた。
e0123189_1619219.jpg

 これは常盤弁財天といい、吉良頼康の側室であった常盤姫を祀ったものである。常盤姫は奥沢城主大平出羽守の娘で、頼康の寵愛を受け、頼康の子も身籠っていたが、他の側室から讒言をされ、追われる身となってしまった。そして捕らえられ、自害して果てたのがこの駒留の辺りだという。常盤姫は逃げる途中で身の潔白を訴えるため、奥沢城の両親に向けた手紙を白鷺の足に付け託したそうだ。しかし、白鷺は途中で力尽き、手紙は間に合わなかったという。その白鷺が葬られた地に、白い花が咲くようになったという。これは鷺草と呼ばれ、今でも奥沢城のあった九品仏近くで見ることができる。そしてこの話は、鷺草伝説としても有名である。荏原
の昔話の一つである。

 そんな鷺草伝説の舞台でもある駒留八幡神社の弁財天であるが、それを取り囲む池は干上がっており、ちょっと残念であった。この弁財天は戦後まもなくまでは、神社境内前にあった池の中島に祀られていたという。今は神社前に環七通りに面した公園があるが、その辺りに池はあったのだろうか。

 また、常盤姫のお腹に身籠っていた頼康の子は、頼康によって八幡神社に一社相殿として祀られたそうだ。このため駒留八幡神社は、またの名を若宮八幡神社と呼ばれている。

 駒留八幡神社は、中世の歴史が詰まった神社であった。



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-03-08 16:20 | 八幡宮めぐり

稗田神社

e0123189_1433667.jpg

 梅屋敷公園から蒲田駅へ歩いて向かう途中、たまたま神社を見つけた。大田区蒲田三丁目二番にある稗田神社である。思わず境内に入り案内板を読んでみると、この社は平安時代の「延喜式」にも記されている古社であるという。また社伝によれば、和銅二年(709)に僧行基が天照、八幡、春日の三神体を創り、当社に安置し、後に日蓮が村人の請を入れて開眼したとあるそうだ。なかなか古い由緒のある神社だ。そして、社伝の中に日蓮の登場するところが興味深い。ここから池上の本門寺はそう遠くない。この辺りでは神社にも日蓮宗の影響が強い。

 さらに案内板には「近来は応神天皇をまつる八幡社で」あったと記されていた。これは当社が八幡神社であると見て良いのではないだろうか。私の荏原の八幡宮リストにまた一社追加されたことになる。しかも、その中でもかなり古い由緒を持つ社である。
e0123189_14333413.jpg

 真新しい本殿に参ってから右奥へ行くと、小さな祠が三つ並んでいた。それぞれ「薬祖神社」「稲荷神社」「三十番神社」と鳥居に名が掲げられていた。お決まりの「稲荷神社」はさておき、あとの二つは何か興味深い名前である。案内板に、明治になって近くの小祠を境内に合祀したとあったから、もとは近隣に存在した小さな社であったのだろう。
e0123189_1434542.jpg

 境内には向かって左手に白梅、右手に紅梅が咲き誇っていた。その咲きぶりは、梅屋敷公園のものよりも見事であった。日に照らされた梅の花々が暖かな春の訪れを感じさせる境内であった。
e0123189_14342137.jpg

e0123189_14343989.jpg

(稗田神社の「稗」は正しくは草冠に「稗」と書くが、インターネットの地図など  で見ると「稗」の字が充てられているので、それに従った。)



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-03-02 14:36 | 八幡宮めぐり

六郷神社

e0123189_1819305.jpg
 第一京浜国道新六郷橋近くに鎮座する六郷神社は、もともと八幡神社である。江戸時代には「六郷八幡宮」と呼ばれていたという。だから私の「八幡宮めぐり」に入れて良い社だ。今の社名になったのは明治以後のことである。周囲の小さな社がここへまとめられたためだと思われる。神社に着いて案内板を見てみると、境内末社として列挙された祭神には、天照大神、素盞嗚命、日本武尊、大物主命、布津主命、天太玉命、天児屋根命、宇迦御魂命とあり、あらゆる種類の神が押し込められてしまったかのようになっている。

 社伝によると六郷神社の由緒は古く、天喜五年(1057)に源頼義・義家父子がこの地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、石清水八幡に武運長久を祈ったところ士気が高まり、前九年の役に勝利を収めたのでその分霊を勧請したのが創建とされている。また、源頼朝も奥州平定の際、祖先の例にならって戦勝を祈り、建久二年(1191)に社殿を造営したという。まさに源氏づくしの社である。

 ところで、源頼義が前九年の役へ向かう際に通って云々という由緒は、他の八幡神社でも見たことがある。世田谷区尾山台の宇佐神社だ。あの社も、この六郷神社同様、多摩川に近いところにあった。ということは、源頼義の軍は多摩川沿いをずっと下って奥州へ向かったのだろうか。いや、多摩川を下ると南へ戻ることになり奥州へ背を向けてしまう。では、六郷から多摩川を遡って尾山台に至ったのだろうか。そうすると今度は西へ移動してしまう。それも考えづらい。頼義・義家にまつわる由緒をもつ八幡神社は数多いが、この二つの社の由緒を採っただけで、早くも矛盾が出てきたように思う。

 それはさておき、時代が下って徳川家康が関東に入部すると、六郷神社には朱印地十八石が寄進された。そして慶長五年(1600)の六郷大橋竣工の際には、当社の神輿が渡初式を行ったという。また、徳川将軍鷹狩りの際にもしばしば参詣があったため、葵紋を用いるようになったそうだ。江戸時代には「江戸名所図会」にも描かれたということで、それが案内板にも載せられていた。当時は東海道筋にあったから、参詣の人も多かっただろう。図会にも東海道が描かれているが、その往還に並ぶ人家は八幡塚村のものだそうで、村の名は境内にある塚から来ているという。源義家が前九年の役の際に武器を納めたといわれる塚である。

 国道に面した参道を進み境内に入って行くと、古い狛犬があった。貞享二年(1685)に六郷中町の有志が奉納したもので、大田区内最古の狛犬だそうだ。古い狛犬は姿が少しぎこちなく、表情も豊かである。
e0123189_18195571.jpg

 左手の拝殿に参ってから折り返して真っ直ぐ進むと、立派な神門と鳥居がある。こちらが神社の正面と言って良いだろう。
e0123189_18201428.jpg

 神門の外に小さな石橋があって、これは梶原景時が奉納したものと伝えられている。確かに古めかしい橋だ。それにしても梶原景時は荏原を旅していると良く出てくる。
e0123189_18203166.jpg

 こちらの入口から真っ直ぐに伸びる道が、古い時代の東海道といわれている。先の「江戸名所図会」には、松並木が描かれている。第一京浜国道の喧騒から外れた細い道は、少しだけ「江戸名所図会」の面影を残す場所であった。

e0123189_18204871.jpg


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
[PR]
by ebara_explorer | 2008-01-24 18:21 | 八幡宮めぐり

小林若宮八幡神社

e0123189_16362761.jpg

e0123189_16375938.jpg

 小さな八幡神社を見つけた。蒲田駅近くの環八通り沿いから少し奥まった、住宅地の中である。大田区東矢口三丁目二十八番地にあたる。最初に訪れたときは、境内で年配の方々がゲートボールに興じていたのでちょっと入りづらく、後日再訪してみた。このときは誰もおらずひっそりしていた。

 鳥居脇の「告知」と書かれた小さな案内板を見ると「小林若宮八幡神社」と書かれていた。これが正式な社の名前であろう。小林というのは人の名前のようでもあるが、地名だろうか。このときはわからなかった。

 若宮という名も気になる。若宮とは、本宮に対する新宮、親神に対する御子神を意味するものである。どこかに本宮である社があって、それに対する「若宮」なのではないだろうか。

 狭い境内には社殿のほかに、古めかしい手水鉢、狛犬、神楽殿、神輿の蔵、社務所もあり、一通りのものが揃っていた。しかし由緒書きなどはなく、どのような歴史があるのかは知る由がなかった。

 社殿の左手奥にはお稲荷様がいらっしゃった。近所にあった社が合祀されたものだろうか。祠には「小林稲荷神社」とあった。これもまた「小林」であった。
e0123189_16381735.jpg

 帰宅してから調べてみると、社のある辺りはかつて荏原郡小林村であることがわかった。小林は地名であった。ということは、小林若宮八幡神社は小林村の鎮守であったのかもしれない。

 そう思ってさらに調べてみると、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』荏原郡小林村の項に「若宮八幡社」とあり、当所の鎮守であると記してあった。加えて土地の人の伝えるところとして「鎌倉八幡」を勧請したとあった。鶴岡八幡のことを指しているのだろうか。ということは、創建は中世まで遡るかもしれない。何だか急にこの小さな社の格が上がったように思えた。また「村内金剛院持」とも書かれていた。これは金剛院が別当であったということであろう。地図を見直してみると、八幡神社から環八通りを挟んだ反対側に今も金剛院というお寺があった。

[PR]
by ebara_explorer | 2008-01-12 16:41 | 八幡宮めぐり