カテゴリ:八幡宮めぐり( 34 )

旗岡八幡神社補足

 近所の史跡めぐりの旅は、やり直しがきく。見学した後に復習した結果、こんなこともあったのか、あれを見ておけばよかった、ということがあって、もう一度行きたくなっても、すぐに行くことができる。

 以前訪れた旗岡八幡神社には、補足しておかないといけないことがあった。それは神社に隣接する法蓮寺のことである。旗岡八幡神社を訪れた後に調べたところ、この寺は旗岡八幡神社の別当寺であったという。

 すでにいくつかの八幡神社を訪れて確認している通り、荏原では八幡神社の近くに日蓮宗の寺院があり、そこが八幡神社の別当寺になっていたという例が多い。旗岡八幡神社も、そういえばお寺がとなりにあったなと思って調べてみると、やはり日蓮宗の寺で、神社の別当寺になっていた。前回、旗岡八幡神社を訪れたときは法蓮寺を素通りしていたので、改めてこの地を訪れてみることにした。

 法蓮寺は東急大井町線の荏原町駅を降りてすぐのところである。電車からもよく見えるので、前々から見知っていたが、訪れるのは初めてである。
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 大きな本堂の奥にはちょっとした庭園もあり、落ち着いた雰囲気のする寺であった。庭園の脇に、石碑が建っていた。正面には「当社八幡宮 南無妙法蓮華経 日蓮大聖人御勧請」と刻まれている。題目の脇に「八幡宮」とあるのは何とも違和感がある。だがこれこそ、法蓮寺が旗岡八幡神社の別当寺であったことを示すものだと言える。
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 石碑の両脇には「正徳五乙未天 武州荏原郡中延村 長林山法蓮寺」「五月八日市谷田町下二丁目 願主川口・・・ 石屋・・・」とあった。題目供養塔のようなものであろう。正徳五年は江戸時代中期の1715年にあたる。この法蓮寺と旗岡八幡神社は、江戸名所図会に「中延八幡宮」の名で登場している。江戸郊外のちょっとした名所でもあったようだ。

 また、当寺は鎌倉時代にこの辺りを領していた荏原氏の館跡とも伝えられているそうだ。まさに荏原の中心というべき地なのかもしれない。荏原をめぐる私にとっては重要な場所だ。

 法蓮寺を辞してから、旗岡八幡神社を再訪してみた。前回訪れたのは茅の輪くぐりの頃だったが、季節は流れて晩夏になっている。神社では秋祭りの準備が行われつつあった。

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by ebara_explorer | 2007-09-11 22:30 | 八幡宮めぐり

蒲田八幡神社

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 八幡めぐりの旅先はいきなり飛んで、今度は大田区蒲田である。京急蒲田駅近くの商店街に、蒲田八幡神社がある。アーケードから一本道を隔てたところに、ちょっと窮屈そうな杜があった。それでも参道はわりと広々していた。

 お参りをしてから由緒書きを探すと、入口近くに見つかった。また鎮座四百年の記念碑もあり、これにも社の由緒が書かれていた。

 それらによると、この地には、古代の斎祀の遺跡があったと伝えられているという。そして近世初頭の慶長年間(1596年~1615年)に、北蒲田村と新宿村が分村するにあたり、稗田神社の「春日の像」をここへ分祀し、新宿村の鎮守として新宿八幡神社となったそうだ。稗田神社というのはどこにあるのかと思って後で調べてみると、現在の蒲田三丁目にあった。蒲田駅の北側で、文字通り「北蒲田」にあたる。尚、この社が蒲田八幡神社と名乗るようになったのは昭和二十四年(1949)のことだという。

 このように見てくると、八幡神社としての歴史は古くないようだ。記念碑には源頼義・義家が近くの六郷の渡しを通ったことも書かれていたが、特にこの地に彼らの伝承はないようである。

 境内を一旦出ると、寺が隣接していることに気付いた。これは今までの大田区の八幡神社と同様、別当寺になっていた日蓮宗の寺院ではないだろうか。そう思って寺の正面に回ってみると、やはり日蓮宗のお寺であった。寺の名を妙安寺という。 先に見た神社の由緒書きによれば、分祀した「春日の像」が明治の神仏分離によって妙安寺に移されたとあったから、この寺と蒲田八幡神社が関わりを持っていたことは窺える。やはり、妙安寺は蒲田八幡神社の別当だったのではないだろうか。

 神社の境内に戻ると、参道脇に狐様がいらっしゃるのに気付いた。稲荷神社だ。小さな祠の両側にいる狐様は、檻のようなカバーをかけられていた。いたずら防止のためなのだろうが、何だかかわいそうだった。
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 そんな狐様を眺めてから、私は晩夏の涼やかな境内を抜け、アスファルトの熱い蒲田駅前へと向かった。




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by ebara_explorer | 2007-08-31 23:36 | 八幡宮めぐり

宇佐神社

 丸子川沿いの旅を続ける。今度は東急大井町線の尾山台駅から歩いた。駅前から線路沿いを九品仏駅方面へしばらく行き、それから南へ下る。道はやがて環状8号線にぶつかる。アスファルトに塗り固められた広い路面が強い日差しを照り返していて、ムワンとしてくる。尾山台は荏原の中でも標高が高いところで、45メートルくらいあるという。

 環状8号線を越えると、道は下りになる。この坂を「寮の坂」という。坂のてっぺんに道標があった。道が二股になっており「左 籠谷戸 右 多摩川」とある。左の「籠谷戸」とは、先日訪れた田園調布八幡神社のある辺りだ。ここに来て、前回の旅とつながってきた。この辺りは田園調布八幡神社よりも丸子川沿いを少し上流へ遡ったところにある。

 道標の裏に「寮の坂」の案内板があった。坂の名は、もともと坂の上の台地上にあった伝乗寺に、学寮があったことに由来するという。学寮のあったということはかなり大きな寺であったと考えられる。現在、この伝乗寺は坂の下にある。伝乗寺からは正和五年(1316)銘の板碑が出土していることから、その歴史は古いという。
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 案内板には籠谷戸に関する記述もあった。それによると、室町時代に奥沢城主であった大平出羽守が、多摩川上流から運ばれた武器・兵糧を、籠谷戸からこの寮の坂上あたりに陸揚げし城へ運び入れていたと伝えられているという。奥沢城は現在の九品仏浄真寺の辺りにあったはずだ。中世における籠谷戸の重要性をさらに知った。

 また江戸時代には、伝乗寺が川崎泉沢寺と九品仏浄真寺の中間軍事拠点となっていたという。江戸時代に軍事拠点とは物々しい言い方だが、交通の要衝であったことは知られる。

 ここから急坂を下って行くと、坂下の家並の向こうに多摩川の向こう岸が望まれる。川崎市である。そして坂の途中の右手には神社がある。ここが今回の目的地である。

 社の名を宇佐神社という。宇佐といえば、八幡宮のおおもとである宇佐八幡宮が想起される。だから私はこの社を地図で見つけたとき、八幡神社に違いないと考えた。実際、すぐ近くには「はちまん橋」というバス停があるし、境内には「八幡塚古墳」なる史跡もある。だから「○○八幡神社」という名ではないけれども、私はこの神社を八幡宮めぐりのリストに入れていた。
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 木立を背負った社殿は南向きで、南側は眺望が開けていた。夏空が境内の上に広がっている。社殿と向き合うようにして、由緒書きの碑があった。見上げると眩しく読みづらかったが、何とか読み取れた。

 由緒書きによると、この神社の創建は源頼義であるという。源頼義が前九年の役で奥州へ向かう際にこの地を通ったとき、空に八つの雲がたなびき、それが源氏の白旗のようであったという。これに感嘆した頼義は、合戦の後この地に八幡神を祀ると誓い、前九年の役の後にこの社を創建したという。

 田園調布八幡神社の由緒に、籠谷戸付近に鎌倉との往還のあったことが書かれていたが、この宇佐神社の由緒からは、平安時代にも西国と奥州を結ぶ往還のあったことが窺える。だんだん荏原の中世が立体的になってくる想いであった。
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 境内のすぐ南には、伝乗寺本堂の大きな屋根が見えていた。宇佐神社を後にして伝乗寺へ行ってみた。
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 寺域は広くなかったが、本堂の前には小ぶりながらも五重塔があったし、南に回れば仁王門もあった。寺は浄土宗であった。「寮の坂」の案内に、九品仏浄真寺との中継拠点になっていたとあったから、九品仏浄真寺と同じ浄土宗ではないかと思っていたが、やはりそうであった。
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 寺からもう少し南側へ行けば丸子川に行き着くが、暑いので今回はこれで帰ることにした。アブラゼミの鳴く境内を出て、元来た道を戻る。坂を上りながら私は、今度は籠谷戸をもう少し歩いてみたいなと思った。



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by ebara_explorer | 2007-08-29 22:42 | 八幡宮めぐり

田園調布八幡神社

 田園調布の西守稲荷神社を訪れた後、私は丸子橋のたもとに出た。田園調布にはまだ別のお稲荷様がいらっしゃるので、それを巡ろうかとも思っていたが、今回は違う目的がある。目指すは田園調布の八幡神社である。

 先日、二子玉川の周辺を訪れたが、そのときは丸子川という川沿いに歩いた。この丸子川の下流が丸子橋付近に当たる。ちょうどこの辺りで丸子川は多摩川に合流している。先日来、丸子川が何となく気になっていたので、今回は丸子川散策の第二弾とした。この丸子川沿いに八幡神社がある。

 丸子川は、仙川から分かれた流れと、世田谷区の祖師谷辺りから来た流れが合流して、この前訪れた岡本付近からずっと、多摩川の北岸をたどっている。今では小さな流れだ。ただ、きっと昔は灌漑など生活に欠かせない水源だったと思う。そしてこのような小さな川がいくつも流れているのが荏原の特徴であり、その流れによって起伏の激しい荏原の地形も成り立っている。史跡めぐりも川が流れるように連なっていけば良いが、今はまだ点を打つようにあちこち訪れていくしかない。その点がやがて線になって流れ出し、そして面になって、私の中の荏原が築かれていくものだと思っている。


 さて、丸子川を遡ることにする。川の流れは多摩川河川敷沿いの多摩堤通りと、多摩川台公園の間を細く流れて行く。車通りの多い多摩堤通り沿いを歩くのは嫌なので、多摩川台公園に入った。実は、この公園にも史跡がある。それは古墳群である。多摩川台古墳群と呼ばれるものだ。

 古墳は、歴史というよりは考古学といえる。そして私は考古学があまり好きではない。だからこの古墳を荏原の歴史物語に入れるべきかどうか、今は悩んでいるところだ。今回のところは、古墳時代の昔からこの辺りに人々の痕跡があるんだなという認識を新たにするくらいにしておこうと思う。

 鬱蒼とした木立の中、古墳群に付き合って上ったり下ったりしているうち、すっかり汗だくになってしまった。ようやくに公園の木々を抜け、丸子川沿いに出る。この辺りは川の南岸だけに道があり、北岸はすぐに住宅の敷地である。だから各家の門ごとに橋が架かっている。自家用の橋というわけである。

 そんな川沿いを歩いて行くと、やがて寺が見えてきた。照善寺という。目指す八幡神社は程近い。この寺が日蓮宗で、八幡神社の別当になっていたというパターンかと思ったが、照善寺は浄土宗であった。別当寺だったのかどうかはわからない。特に由緒書きはなかった。
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 寺専用の橋を渡ってお参りをして、また橋を渡って戻ろうとすると、正面の壁にへばり付くようにして青面金剛が見えた。庚申塔だ。この場所に古くから往還のあったことが知れる。

 そしてさらに川沿いを遡って行くと、にわかに北岸の崖が急になる。ちょっと薄暗くなってきた。そこに田園調布八幡神社がある。
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 橋を渡り急な石段を上って行くと、小さな社殿がある。思っていたより小さな社であった。社殿の右奥にはお稲荷様の祠があって、紅い幟が派手に揺れていた。八幡神社の社殿にあまり飾り気がないので、そちらの方に目が行ってしまう。八幡神社にお参りに来たのか、稲荷神社にお参りに来たのか、よくわからなくなった。
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 境内に由緒書きは見当たらず、特にどうすることもできなかった。仕方なしに石段をとぼとぼと下りる。最初のうち訪れた八幡神社は結構な由緒を持っていて、源氏の何某などが出てきて面白かったが、このところ訪れる八幡様は案外に小さくて由緒のはっきりしないものもある。今回もそうだったなあという、少し残念な気持ちになってしまった。
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 石段を下り切り橋を渡ったところで振り返り、写真を撮っていると、橋のたもとの掲示板に気付いた。町内の掲示板かと思ったが、それは神社の掲示板であった。そしてそこにA4版の紙で由緒書きが貼られていた。

 読んでみて驚いた。神社の創建は、鎌倉時代の建長年間(1249年~1256年)という。しかもこの神社の西側の篭谷戸と呼ばれる辺りが当時は入江になっていて、多摩川沿いの良港であったと書いてある。さらに、谷戸の上には鎌倉街道の往還があり、港と接続していたというから、交通の要衝となっていたといえる。八幡神社は、そのような人々の集まる場所に、鎌倉武士が祀ったものとされている。

 身近にある中世を、私は知らなかった。しかし、この上なく嬉しかった。急に、自分が中世と近くなった気がした。静かな住宅街に、往時の活気ある港の賑わいが聞こえてくる。目の前の小さな丸子川の流れが膨らんで、入江の港となる。荷さばきをする人たちの様子が浮かぶ。
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 ここで私は、新たな荏原の視点を知った。多摩川の水運である。これを頭に入れておかねばと思った。それから鎌倉街道である。これはひそかに目を付けてはいるが、改めて荏原の歴史には欠かせないものだと思った。とにかく荏原の中世を新たに知ることができて、楽しくなってきた。

 また、この八幡神社は江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に、戦国大名北条氏照の旧臣である落合氏の子孫が中興したという歴史もあるそうだ。小さな社だなどとがっかりすることはなかった。大きな歴史を持った社であった。そして私も大きな収穫をもって、今回の散策の帰途に就くことができた。



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by ebara_explorer | 2007-08-15 20:36 | 八幡宮めぐり

岡本八幡神社

 下山稲荷神社から再び丸子川沿いへ戻り、さらに川に沿って進む。晴れて暑かったこの日、坂を上ったり下りたりしているうちにだいぶ汗をかいた。喉も渇いてきた。しかし川の周辺は静かな住宅街で、飲料の自販機もない。仕方なしに歩き続ける。ただ、川のすぐ北側が静嘉堂文庫を囲む木立になっていて、それがいくらか涼を運んでくれた。

 しばらく行くと岡本公園に出た。次の目的地はこの公園の奥にある岡本八幡神社だ。お稲荷様めぐりの後は八幡宮めぐりである。だがそこへ行く前に、とりあえず少し休むことにする。休憩するのに良い場所がある。

 公園内には民家園がある。そこには旧家が復元してある。藁葺きのがっしりした家屋であった。暑さで呆然としながらその家へ歩を進める。とにかく日差しから逃れたかった。
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 土間へ入り、汗をぬぐいながら旧家のいわれを読む。旧長崎家住宅と呼ばれるこの建物は、区内の瀬田にあったものだそうだ。18世紀末に建てられたものだという。これもまた、荏原の昔の眺めを知ることができるものである。

 説明を一通り読んでから辺りを見回していると、裏口から係りのおばさんが出てきて「こんにちは」と声をかけてきた。慌てて挨拶する。

 土間から板の間に上がり込む。暑いのに、囲炉裏の火が燃えていた。隅にはポットと急須と茶碗があった。見学者用のお茶のサービスだろうか。喉がカラカラなので思わず飛び付く。ポットには熱湯が入っていた。囲炉裏の火で沸かしたのだろうか。

 温かいお茶をいただく。熱さよりも、体に水分のしみわたっていく歓びの方が勝っていた。ホッとする。

 土間のとなりが座敷である。開け放たれた障子戸の向こうに、外の暑い景色がぼうっと広がっている。そこから、暗い室内をわたってくる風は涼しい。汗が引くまで、ただぼんやりとした。

 いくぶん生き返ったところで旧家を出る。再び暑さの中だ。家の裏手へ回ると目指す岡本八幡神社がある。白い鳥居をくぐり、石段を伝って再び斜面を上る。上り切ると、正面に小ぢんまりとした社殿があった。特に案内板もなく「八幡宮」とだけ書かれた碑が脇に建っている。石段のそばに干上がった御手洗台があって、何となく虚しい。ひっそりとした八幡神社であった。
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 特にいわれもわからないので、ただただお参りするしかなかった。予想以上に小さな社であった。それはまるで、民家園の屋敷神のようでもあった。

 帰りは脇の坂道をたどった。だらだらと下りて振り返ると、旧家と社を囲む木立は深く、それを見下ろす空が広く高く感じられた。東京の空とは思えなかった。

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by ebara_explorer | 2007-08-08 22:26 | 八幡宮めぐり

子安八幡神社

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 道々橋八幡神社に参った後、呑川の道々橋を渡り、北へと向かった。この辺りは小さな工場の多いところである。バス通りから路地に入ると、鬱蒼とした杜が見えてきた。ここが子安八幡神社である。道々橋八幡神社とは、呑川を挟んで対峙するような位置にある。

 木立は深く、曇り空の所為もあるが昼なお暗いという表現がぴったりの森閑さであった。急な崖面を石段で上って行く。呑川の谷に面したこの崖面は湿っぽく、汗でベタベタしていた体がジメジメとしてきた。

 それにしてもここの石段は急すぎる。崖のあちこちに「ここで遊んではいけません」という神社の注意書きが出ていたが、これは暗くて物騒だから遊んではいけないというのではなく、石段があまりに急で危険だから遊んではいけないのだと思い至った。
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 ここまでだいぶ歩いてきた私には少しきつい石段だったが、上り切ると空が明るくなって、正面に拝殿があった。参った後、由緒書きを探したが、ここにもそういったものはなかった。子安八幡神社という名称から、創建には子宝や子供の成育に関わるような願いが込められているように思った。

 恐る恐る石段を下り、崖の下に戻る。そして木立から抜けると、東側に林昌寺という日蓮宗の寺院がある。この八幡神社も、お寺とセットになっている。考えてみると、この日巡った八幡神社には、いずれも東側、つまり池上本門寺に近い方にお寺がある。かつて八幡神社は本門寺の配下にあったように思われる。

 境内に由緒書きはなかったが、後日東京都神社庁のホームページにこの子安八幡神社の由緒書きを見つけた。それによると当社は、康元元年(1256)に池上宗仲が鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とされている。そのときは池上山(現在の池上本門寺境内)に建てられたという。それが天正九年(1591)に遷座され、現在地に移ったそうだ。

 池上宗仲は鎌倉時代、池上に館を構えていた武士である。つまり、この八幡神社は、鎌倉武士が守護神として自身の本拠に八幡神を勧請し創建されたものだ。今までに訪れた八幡神社とはまた異なる種類の由緒を持つ社であった。


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by ebara_explorer | 2007-07-26 15:49 | 八幡宮めぐり

道々橋八幡神社

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 八幡宮めぐりは尚も続く。東部八幡神社から本光寺を経てライラック通りへ戻り北へ向かう。すると、信号のある交差点の角にまた庚申塔があった。庚申塔は辻に多いなと思う。

 この交差点から田園調布駅行きのバスが通る道へ入って行くと、次に訪れるべき八幡神社がある。道々橋八幡神社という。「道々橋」を何と読めば良いのかわからなかったが、近くに同名のバス停があり、ふりがなが振ってあった。これは「どどばし」と読むようだ。

 「どど」という響きが頭の中に繰り返されつつ境内へと進む。さほど広くない境内だが、公園が併設されている。ただ人影はなく、どんよりとした空の所為もあって陰湿な感じがした。
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 社殿にお参りした後、由緒書きの案内板がないか探したが見当たらなかった。どのような由緒がある八幡神社なのかわからず、困惑してしまった。

 疑問を残しつつ、バス通りから一本向こうの通りへ出ると、樹林寺という寺がある。言うまでもなく日蓮宗の寺院である。どうもこの辺りの八幡神社は、いずれも日蓮宗の寺とセットになっているようだ。そしてかつては、日蓮宗の寺が八幡神社の別当になっていたと考えられる。

 ひっそりとした樹林寺の境内に大田区教育委員会の案内板を見つけた。日蓮上人坐像に関する案内であった。この寺に、寛文十二年(1672)に造られた日蓮上人坐像があるという。これは像底に墨書銘があるためで、その署名から作者が碑文谷法華寺の日禅であったことがわかるという。

 碑文谷法華寺とは、現在の円融寺である。この寺はもともと日蓮宗不受不施派の寺であったが、江戸時代に幕府の弾圧を受け改宗されてしまっている。不受不施派がどういう宗派で、何故弾圧を受けたのか、まだ私は勉強不足だが、荏原の歴史として抑えなければならない重要なポイントであると思う。

 寺を出ると、すぐ目の前に橋があった。呑川に架かる道々橋である。小さな橋であった。八幡神社の名の由来になっているのであろうが、どういう意味なのだろうか。道と道が交差していたとか、そんなイメージしか浮かばなかった。私の頭の中に、再び「どど」という響きが繰り返された。

 後日、道々橋八幡神社の由緒について調べてみたが、よくわからなかった。はっきりしたのは、江戸時代ここに道々橋村という名の村があり、八幡神社がその村の鎮守になっていたということである。


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by ebara_explorer | 2007-07-24 15:16 | 八幡宮めぐり

久が原東部八幡神社

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 久が原東部八幡神社は、西部八幡神社と同様、崖の上にあった。境内の案内板によれば、久が原台地の一番の高所に建てられているという。住宅地の中にあるが、小学校が隣接しているので、西部八幡神社よりは少し賑やかであった。また、こちらの方が木立は少なく、明るい感じがした。

 社殿は古く、文久二年(1862)の建築とされている。かつては茅葺きだったそうだが、今は銅で覆われている。それでも風格のある社殿だ。

 この東部八幡神社が、西部八幡神社を分祀した本家ということになるので、創建は天平神護元年(765)とされる。宇佐八幡宮より分霊を勧請したとあるが、久が原の地は宇佐八幡宮と何か関係があったのだろうか。この八幡神社は、由緒書きに源氏や武家が出てこないパターンである。

 境内の隅に小さな社があった。これも稲荷神社だと思った。狐様はいなかったが紅い鳥居が並び、紅い社殿がある。何だかどこに行ってもお稲荷様に見られているような気がしてきた。
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 境内を出て坂を下って行くと、本光寺というお寺がある。これも日蓮宗の寺院であった。寺の近くの交差点に、庚申塔を見つけた。この庚申塔の青面金剛は帝釈天として祀られている。日蓮宗では青面金剛を帝釈天の使者として勧請するという。この地では庚申塔にも日蓮宗の影響が強い。

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by ebara_explorer | 2007-07-23 14:20 | 八幡宮めぐり

久が原西部八幡神社

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 お稲荷様めぐりに熱くなってきたが、八幡宮めぐりも忘れてはいない。こちらも興味のあるテーマだ。

 荏原の八幡宮を探したとき、ある地域に八幡宮が密集していることに気付いた。大田区の久が原近辺である。この辺りには五つもの八幡宮を見つけた。それでいくつかをまとめて訪れてみることにした。

 東急池上線の久が原駅で下車し、最初に訪れたのは西部八幡神社である。駅前から続くライラック通りから、少し住宅街の中へ入ったところにあった。境内は崖面の上で、道が下り始めようかというところに位置している。

 この西部八幡神社に近接して、東部八幡神社もある。正しく言うと、久が原西部八幡神社と久が原東部八幡神社である。名前から察するに、両社は関係があるのだろうと思っていたが、もとは一つであったようだ。

 江戸時代、久が原の地は西側の六郷領と東側の馬込領に分断されてしまった。それで馬込領にあった八幡神社(現在の東部八幡神社)を分祀し、西部八幡神社が創建されたという。そしてそれぞれが鎮守として信仰され、現在に至っている。

 木々の生い茂る西部八幡神社の境内に入って行くと、朱塗りの社殿が現れた。梅雨空の曇天の下で、それは戸惑うくらいに朱かった。お参りしようとすると、賽銭箱のだいぶ手前に柵がしてあった。賽銭を投げ込むには少し距離がある。どうしようかと思って良く見てみると、柵の一部が押せるようになっていた。恐る恐る押し開けて中へ進み、お参りを済ませた。

 社殿の向かって右側に「社殿御造営紀念」という石碑があった。近寄って見てみるとまず由緒書きがあり、天平神護元年(765)に宇佐八幡宮を勧請した旨が書かれていた。ずいぶん古い謂われがあるたものだと感心した。

 石碑によれば、現在の社殿は約三十年前の昭和五十三年(1978)に完成したそうだ。社殿としては新しいものと言える。それ以前の社殿は約二百年前の文化七年(1810)の造営であったという。老朽化したので建て替えたと書いてある。以前の社殿を見てみたかったものだと思う。

 ふと現在の社殿に目を遣りなおすと、右手奥に小さな社が見えた。稲荷神社であった。ちょうど塗り直しをしているのか、狐様がビニールに包まれていた。その前で一人の作業員が黙々と働いていた。八幡宮の中に稲荷神社があるのは珍しくないことだと思う。

 境内を出ると、崖の下に当たる位置に安詳寺というお寺があった。池上本門寺が近いだけに、この寺は日蓮宗であった。


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by ebara_explorer | 2007-07-21 15:49 | 八幡宮めぐり

旗岡八幡神社

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 八幡宮めぐりの旅を続けたい。次に訪れたのは、大田区旗の台にある旗岡八幡神社である。

 旗岡八幡神社の最寄り駅は、東急大井町線の荏原町駅である。荏原を旅している私には気になる駅名だ。この辺りには他にも、荏原中延駅があり、また「荏原」を冠する公共施設も多い。荏原という地名の由来については、いずれしっかりと学ばなければならない。

 さて、旗岡八幡神社は鬱蒼とした木々に包まれていた。お参りをした後、境内を入ってすぐのところにあった由緒書きに目を通す。

 旗岡八幡神社の発祥は長元三年(1030)とされている。平忠常の乱を平定すべく、下総に向かった源頼信がこの地に宿営した際、霊威を感じて戦勝祈願のために八幡神を奉ったのが始まりだそうだ。その際、高台に布陣し、源氏の白旗を立てて大いに武威を誇ったことから「旗岡」あるいは「旗の台」の地名が起こったのだという。

 旗の台の地名の起こりに源頼信が関わっていたとは知らなかった。東急線の駅名としても、何気なく使っていた「旗の台」である。この由来にはかなり驚いた。

 鎌倉時代になると、荏原義宗なる人物が当地の領主になり、この八幡神社の発展に寄与したという。やはり「荏原」の地名はこの辺りに起因するのだろうか。

 由緒書きは最後に「当神社は創建以来千年近い歴史を歩んでまいりましたが、時移り時代が変っても常に氏子崇敬者の心の拠り所として親しまれ敬われ今日に至っております」と結んでいる。

 この周辺は商店街が多く、地域に活気があるように思う。そういう意味では、地域の氏神として、今も信仰が厚いのかもしれない。私が訪れたのはちょうど六月末で、鳥居には大祓の茅の輪くぐりが設けられていた。きっと地域の人が大勢くぐりに来るのだろうと思った。

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by ebara_explorer | 2007-07-10 22:48 | 八幡宮めぐり