カテゴリ:八幡宮めぐり( 34 )

世田谷八幡神社

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 荏原の史跡巡り上、南東の巨大な存在である池上本門寺に対して、北西には吉良氏という大きな存在がある。荏原の戦国大名である。池上本門寺が大田区の史跡巡りの中心になるのに対して、吉良氏は世田谷区の史跡巡りの中心になるといってよい。

 その吉良氏の影に怯えつつ、私はまだ世田谷の史跡巡りに足を踏み出していなかった。しかし、いつまでも世田谷を放っていくわけにはいかない。

 そこで吉良氏はひとまず置いておき、とりあえず世田谷の八幡宮めぐりに出てみた。最初に訪れるのは、以前に一度行ったことのある世田谷八幡神社である。

 弦巻にある世田谷区の中央図書館に寄った後、歩いて世田谷八幡神社へと向かった。バス通りを北へ進むと、大きな交差点に出た。世田谷通りの少し手前である。信号待ちになったので立ち止まると、横断歩道手前の案内板に載っていた地図が目に付いた。

 地図には、目の前を左右に通じる道のところに「大山道」と書かれていた。江戸と伊勢原の大山を結ぶ古道だ。この古道も調べなきゃなあと思って地図上で追っていくと、すぐ先の道沿いに「八幡神社」の名が見えた。この八幡神社はノーマークであった。しまった、また八幡宮めぐりの行き先が増えてしまった、と思う。しかし「八幡神社」とあるだけで、名前がない。どんな神社なのだろうか。気にはなるが、今回の目的地は世田谷八幡宮である。信号が変わったので、そちらへと急ぐ。こちらの「八幡神社」はまた今度だ。

 吉良氏の史跡を横目にしながら、世田谷八幡神社へ向かう。社は東急世田谷線宮の坂駅のすぐ近くにある。前回は桜の咲く時期に来たが、今回は新緑の色濃くなった六月中旬である。

 鬱蒼とした境内に入って由緒書きを読む。創建には「八幡太郎」こと源義家が関わっているとのことであった。義家は後三年の役の帰途、この世田谷の里で豪雨に遭い、十日間も足止めをくらったという。その間に源義家は、後三年の役の勝利が八幡大神の加護によるものであったとして、宇佐八幡宮の分霊を招き盛大な祭りを執り行ったそうだ。また、里の人々にも八幡神を鎮守として信仰するよう教えたと伝えられている。これが世田谷八幡神社の起源とされている。

 このように、八幡宮の創建に源義家が関わっているという例は、あちこちに残っているように思う。全国に「空海が建立した寺」というのも実に多いが、源義家もどれだけ八幡宮を創建したのかと思う。各社の言い伝えを全て集めてつなげてみたら、後三年の役における行き帰りの道順はどうなるだろうか。

 それはさておき、由緒書きを読み進めていくと、やはり吉良氏が登場した。当社に残る棟札によると、天文十五年(1546)に世田谷城主であった吉良頼貞、頼康が社殿の修繕を行っている。また、ここは吉良氏の祈願所ともなっており、当時の神職は吉良氏家臣の大場氏が務めていたという。

 しかし吉良氏は、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで、北条氏とともに滅んでしまっている。その後は江戸に入府した徳川家康が庇護を加え、今日に至っているという経緯である。

 やはり吉良氏が登場してしまった。世田谷の歴史を紐解くのに、吉良氏は避けて通れない存在だ。吉良氏のことを学んでから、またここへ来ないといけないかもしれない。

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by ebara_explorer | 2007-07-08 23:47 | 八幡宮めぐり

雪ヶ谷八幡神社

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 千束八幡神社に程近い雪ヶ谷八幡神社は、大岡山方面から伸びてきた台地の崖下に位置している。東急池上線石川台駅前の小さな商店街にスッポリと納まっている小さな社だ。

 境内の「社誌」を読んでみる。すると意外にも新しい社であることがわかった。新しいといっても、八幡社としては、ということであり、創建は戦国時代である。

 永禄年中というから西暦1558年から1570年の間のことであるが、当時この地を支配していた戦国大名北条氏康の家臣太田新六郎という者が、巡回の途中に当地で法華曼荼羅の古碑を発掘したという。その「奇瑞」により八幡大菩薩を祀ったそうだ。八幡神社の創建に戦国武将が関わっているというのは、新しいパターンである。千束八幡神社を訪れた後に、ついでのような形で訪れた雪ヶ谷八幡神社であったが、同じ八幡神社でも全く性質の異なるものであった。

 ところで、発掘された「法華曼荼羅」というのは、日蓮宗の曼荼羅ではないだろうか。法華曼荼羅とは法華経の世界を表したもので、法華経は日蓮宗で最重要視される経典である。荏原では、八幡社に触れても日蓮宗が登場してくる。

 それにしても、法華曼荼羅と八幡大菩薩はどのような関わりがあるのだろうか。戦国武将が創建したから、単に武神を祀ったというだけなのだろうか。

 当社は江戸時代になると、近隣に創建された円長寺・長慶寺が隔年で別当に就いたという。両寺はもともと、碑文谷法華寺の末寺とされる。

 碑文谷法華寺とは、現在の円融寺のことだ。円融寺は今でこそ天台宗であるが、以前は日蓮宗の寺院であった。しかし、日蓮宗の中でも禁制となった不受不施派に属したため、江戸幕府により天台宗に改宗させられてしまった。このため、末寺であった円長寺・長慶寺は池上本門寺の末寺へ編入されることとなった。

 ということはやはり、この雪ヶ谷八幡神社は日蓮宗と深く結び付いているということである。そういえば、碑文谷法華寺(現・円融寺)の近くにも、碑文谷八幡神社という八幡社がある。八幡社と日蓮宗寺院の関係というものも、これからは考えていく必要があると思う。

 明治時代になると、神仏分離令により円長寺・長慶寺と当社の関係はなくなる。今、雪ヶ谷八幡神社は小ぢんまりとしていて、村の鎮守といった風情である。私が訪れた六月半ばには、大祓の案内書きが境内にひっそりと出ていた。


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by ebara_explorer | 2007-07-06 22:04 | 八幡宮めぐり

千束八幡神社

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 八幡宮めぐりの旅を始めたい。まず訪れたのは、大田区にある千束八幡神社である。八幡宮めぐりに特に順番はない。思い付いた順に訪れたいと思っている。

 千束八幡神社は大田区南千束に鎮座する。洗足池のほとりにある小さな社だ。洗足池は鎌倉時代の昔、身延山から本門寺へ向かう途中の日蓮上人がここで足を洗ったことからその名があるというが、千束八幡神社の歴史はそれよりも古いそうだ。

 神社の由緒書きによれば、創建は平安時代の貞観二年(860)という。宇佐八幡宮を勧請して千束郷の総鎮守としたのが始まりとされている。千束郷は八幡宮と関わりがあったのだろうか。

 その後、平将門の乱で鎮守府副将軍として派遣された藤原忠方が池畔に居を構え氏神としたり、後三年の役で奥州へ下る途中の源義家が戦勝祈願をしたり、源頼朝が安房から鎌倉へ向かう途中にここへ陣を構えて平家討伐の幟旗を掲げたりと、東国の古代・中世史における画期に大きく関わっているようである。ちょうど池の南を中原街道という古道が走っていることから、ここは古来交通の要衝であったのだろう。

 また、源頼朝の故事に因んで、この八幡神社は旗挙げ八幡ともいうそうだ。さて源頼朝が陣を置いたとき、どこからか青い毛並で白い斑点のあるの馬が一頭やって来たので、郎党がそれを捕らえ頼朝に献上したという。この馬の姿はまるで池に映る月のようであったことから、池月と命名されたそうだ。池月はその後、佐々木高綱に下賜され、宇治川の戦いで先陣争いの一番乗りを果たしたとされている。本殿の脇には池月の姿を描いた大きな絵馬が飾ってあった。青い馬なんて本当にいるのだろうか。見てみたいものだ。

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 このように千束八幡神社は多くの由緒書きを持っている。宇佐八幡宮の勧請という端緒から、源氏に関わる逸話にも事欠かず、八幡宮縁起の典型のような由緒である。

 だが、その割には境内が狭いという印象であった。もっとも、神社を含む池の周囲が公園になっているから、そこをすべて境内と見ればかなり広い。

 ただし、池畔にはもう一つ社がある。弁財天である。八幡神社の境内が池畔の西側、いわば脇にあるのに対し、こちらの弁財天は池の一番奥に鎮座している。弁財天の境内もさほど広くないが、池の一番重要な位置に堂々と鎮座している印象がある。

 また、私が千束八幡神社を訪れたのは六月中旬であったが、弁財天では六月十七日に大祭が開催されるようで、その案内が八幡神社の本殿にも掲げられていた。両社の関わりはどのようなものなのであろう。弁財天といえば、水に関わる神とされる。荏原には弁財天も多いようだ。農業との関わりがあったからだろう。八幡めぐりとともに、弁財天めぐりもしなければならないと思った。

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by ebara_explorer | 2007-06-24 23:57 | 八幡宮めぐり

八幡宮めぐり

 さっそく荏原の史跡巡りに出かけようと、まずは地図を眺めた。寝転がって地図帳を見たり、インターネットのスクロール地図上で荏原を行ったり来たりした。地図上で史跡を探すときは、寺や神社のマークに目をつける。目黒・世田谷・大田・品川という見慣れた地域の地図だが、改めて眺めてみると、寺社が数多くある。
 そんな中、目に付いたのが八幡神社である。荏原には八幡神社が実に多い。もっともこれは荏原に限ったことではなく、全国的な傾向と言えるだろう。

 八幡神社の総本家は大分の宇佐八幡宮である。この神様が日本中に勧請され、全国のあちこちに八幡神社が存在する。有名なところでは、京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮などが挙げられる。すべての神社の中で八幡神社の数は、稲荷神社に次いで二番目に多いとも言われている。
 八幡神社が勧請された理由としては、大きく次の二つが挙げられるのではないかと思う。一つは宇佐八幡宮や石清水八幡宮の荘園となった地に、領主である八幡社が分祀され、その荘園の支配および信仰の中心となったというものである。もう一つは、武家の信仰に基づくものである。八幡神は源氏の氏神とされており、源氏の厚い信仰があった上、武家の守護神としても鎌倉時代以降、全国に信仰が広まり、八幡神社が各地に勧請された。

 そういうわけで、荏原にも八幡神社が多いわけであるが、これはやはり注目に値する。どのくらいあるのかと数えてみると、わかる範囲で目黒・世田谷・大田・品川の四区内に三十の八幡神社が見つかった。
 私はそれらのすべてを訪れてみたくなった。そしてその由緒を調べて、八幡信仰の広がりというものを改めて確かめてみたいと思った。早くも大きなテーマができた。いざ、八幡めぐりの旅に出陣である。
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(写真は春の碑文谷八幡宮参道)

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by ebara_explorer | 2007-05-29 20:00 | 八幡宮めぐり