カテゴリ:石造物( 4 )

来迎院石造念仏講供養塔

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 大井の水神社の前の道を西へ向かい、線路下のガードをくぐって坂を上って行くと、左手に来迎院という寺がある。その入り口から道路を挟んだ反対側に、石仏や石塔を納めた堂が三つ並んでいる。来迎院石造念仏講供養塔として、品川区の史跡に登録されているものだ。もともとは来迎院の境内にあったそうだが、道路が拡張されたために今は境内の外へ出る形となっている。

 念仏講供養塔とされるのは、一番右側の堂内にある地蔵菩薩像二基と、堂の外にある笠塔婆である。地蔵菩薩像は明暦二年(1657)と万治二年(1659)の造立だそうだ。いずれも江戸時代初期のものである。

 地蔵菩薩像と念仏講というと、何となく結び付かないが、そのとなりの笠塔婆を見ると「南無阿弥陀仏」と大きく書かれており、一見して念仏講のものとわかる。いずれも大井村の念仏講が建立したものだという。

 ここは品川と池上本門寺を結ぶ池上道(現在の池上通り)から少し入ったところである。だから、この辺りは日蓮宗の影響が強いのではないかと思っていたが、念仏講の熱心な信仰があったようである。また、来迎院の境内にあったということから、来迎院は浄土宗か浄土真宗の寺かと思ったが、今は天台宗の名を掲げる寺院であった。

 念仏講供養塔の他にも、ここには二つの堂がある。一番左側の堂には石仏三体と石塔一基が納められ、また中央の堂には庚申塔二基と、不動明王像一体が納められていた。庚申塔はいずれも、延宝(1673-1681)の年号を持つものであった。念仏講供養塔より少し時代が下るものであるが、当時の信仰を伝えるものとしてまた貴重なものであると思う。

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by ebara_explorer | 2008-12-16 15:56 | 石造物

日待供養塔

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 馬込の万福寺で最も目を引いたのは、本堂の右手前にあった日待供養塔である。宝篋印塔の形をした石塔だ。総高4メートルに及ぶという。江戸時代初期の寛永十五年(1638)に馬込村の人々が造立したという。台座に「馬込住人」としっかり刻まれているのが見えた。

 日待とは、近隣の者が特定の日に集まって、夜を徹し過ごす行事である。日の出を待つために夜明かしをするのであろう。庚申講と似ているが、日を待つというところに、太陽信仰のようなものも感じられる。ほかに月の出を待つ月待講というのもあるそうだ。供養塔の案内板によると、馬込では大正時代まで日待の習俗が行われていたそうだ。

 梵字の刻まれた宝篋印塔はどっしりとしていて形も良く、庚申塔のような素朴さは感じられなかった。しかし、これもまた庶民信仰の一つの形であると言える。



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by ebara_explorer | 2007-11-23 16:46 | 石造物

中原街道石橋

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 雪ヶ谷八幡神社を見学した後、東急池上線の石川台駅前を通り過ぎ、中原街道沿いに出た。街道沿いを少し西へ向かえば呑川とぶつかる。あとは川沿いにさかのぼれば、地元に戻れる。ただ、この日はすでに、暑い中をけっこう歩いていた。午前中は池上から馬込、午後は電車で大岡山に移動した後、洗足池から千束八幡神社、雪ヶ谷八幡神社と回ってきた。さすがに少し疲れも出てきた。また、見学も充実したもので、もはやこれで史跡巡りは一旦打ち止めだと思っていた。

 ところが、呑川の手前の横断歩道で中原街道を渡ると、交差点の脇に史跡の案内板らしきものが見えてきた。おやっと思って良く見ると、近くに石碑のようなものがある。間違えなく史跡だ。

 史跡巡りには二つの楽しみがある。一つは、事前に予習してきた史跡を見学することである。予備知識があることで、見学は深いものになる。やっぱりそうだったか、とか、こんなこともあるのか、と得られるものは大きく、楽しくなってくる。 

 もう一つは、事前に予習していなかったものに偶然出会うことである。こんなところにこんなものがあったのか、という驚きとともに喜びも得られる。また、それが自分の予習してきたものと密接に関わっていたりして、見学の中身がさらに濃くなるという効果も出てくる。

 この日はその二番目の楽しみを、すでに味わっていた。洗足池を出たところで出会った九品仏みちの道標である。この道標を見つけたことで、大きな喜びを得ていた。それ以外にも予定していた史跡をしっかりと見学してきたし、もう飽和状態になっていた。

 そこに来て、またこの予期せぬ史跡の登場である。もう頭はいっぱいだ。案内板と石碑が目に入ったとき、私は思わず苦笑いしてしまった。まだ出てくるのか、という思いであった。

 しかし、見逃すことはできないと思ってしまう。また来ればよいのに、近いからいつでも来られるのに、ついつい寄って行って見てしまう。

 案内板によると、この石碑は「石橋供養塔」というそうだ。江戸時代の安永三年(1774)に、雪ヶ谷村の浄心らが石橋の安泰を祈って建てたという。石橋とは呑川を渡る中原街道に架かっていた橋のことだ。今、呑川に架かっているのはコンクリートの橋である。

 供養塔の正面には「南無妙法蓮華経」と刻まれている。また日蓮宗の題目だ。側面には円長寺の住職日善の署名と花押があるという。円長寺とは、先の雪ヶ谷八幡神社のところで出てきた、この近くにある日蓮宗寺院である。荏原の歴史を旅する私に、日蓮宗は「これでもか」というくらい付きまとってくる。

 この石橋供養塔は、石橋の無事と通行人の交通安全だけを祈念したという意味で貴重なものだという。でも私にしてみれば、今ここで出てきてほしくなかったなあという史跡であった。

 溢れんばかりの史跡巡りの成果を背負いながら、私はとぼとぼと呑川沿いの帰途に就いた。

写真:石橋供養塔(右側)と、現在の呑川に架かる石川橋(左奥)


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by ebara_explorer | 2007-07-06 22:18 | 石造物

自由が丘の石仏

 さて、八幡めぐりは追々進めるとして、まずは身近な史跡から入ってみたい。家の近所にある石仏巡りだ。
 私が初めて、史跡巡りらしいものをしたのは、小学校3年生の頃ではないかと思う。社会科の授業でテーマとなったからである。そのとき訪れたのが、近所にある路傍の石仏である。我が家から歩いて10分とかからない。これらの石仏はそれ以来、そばを通るたびに気にしていたが、史跡巡りの対象として訪れるのは、小学校以来のことである。
 小学6年生で本格的に日本史を学び始めて以来、私の興味関心は、次第に遠くの有名な史跡へと向けられるようになっていった。大きな城であったり、立派な寺であったりと、興味の対象はどんどん外へと向けられていった。だが、三十年近く経った今、私の興味対象はまたここへ戻ってきた。

 最初に訪れたのは、目黒区自由が丘三丁目一番地にある道しるべだ。
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 目黒通りに面した大きな家の角にある。朱書きで大きく「左九品仏江」と書かれているのが印象的だ。私が初めて見たときから変わらぬ姿でここにある。ただ、以前にはなかった目黒区教育委員会の案内板ができていた。
 その説明によると、これは「高台座付丸彫地蔵像塔」であるという。道標の上に、たしかにお地蔵様が載っている。だから石仏と言っても良いのかもしれない。
 道標の正面は「左九品仏江」であるが、左面には「南無妙法蓮華経」、右面には「南無阿弥陀仏」と刻まれているという。ちょっと見にくいが、左面には独特の跳ねるような字体で「南無妙法蓮華経」が見えた。また背面には年号が刻まれているそうだ。寛保四年とあるから、西暦1744年に当たる。江戸時代の中頃だ。
 この道標は、九品仏にゆかりの者が建てたという。九品仏とは浄真寺のことを指す。その名の通り、九品阿弥陀仏が安置されている浄土宗の寺だ。それで「南無阿弥陀仏」が刻まれているわけである。だが、なぜ反対側に「南無妙法蓮華経 」と刻まれているのだろうか。これは日蓮宗の題目である。
 案内板によれば、当時この辺りには、日蓮宗の信者が多かったのだという。それで道標を建てるにあたり、日蓮宗の題目の刻印を承諾させられたという言い伝えがあるそうだ。この辺りに日蓮宗の信者が多かったとは知らなかった。驚きである。もっとも、近所には立源寺や常円寺といった日蓮宗のお寺があるから、頷ける。それらの寺の檀家になっていた人が多かったのだろう。そういえば子供の頃近所で、寒い時季に太鼓を叩いて題目を唱えながら歩く人々を見たことがある。あれも日蓮宗の信者だと思う。

 灯台下暗し、というか、今更ながら自分の足元の地の新たな歴史を知ったことに恥らいつつ、目黒通り沿いを少し東へ向かう。すると東南へ切れ込む道がある。この分岐点にも石仏がある。こちらは庚申塔だ。目黒区中根一丁目二十五番地にあたる。
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 ここの庚申塔にも思い入れがある。同じく小学生のときに見学したことがあるからだ。自分の名前を音読みすると庚申と同じになるので、何となく庚申塔には親しみを感じていた。また、庚申塔には見ざる・聞かざる・言わざるの猿が刻まれているという話も、子供には親しみやすかった。
 ただ、この石仏を取り巻く景色は少し変わっていた。昔は木の覆いだったのに、今では立派な石造りの覆いになっていた。また、左後ろに大きな枯木の幹が突っ立っているが、子供の頃はまだその木が元気に生い茂っていたように思う。背後にあるマンションも建て変わっていた。でも、石仏の脇にはやはり教育委員会の案内板ができていて、これはありがたかった。
 説明によると、二体のうち右は庚申塔だが、左は馬頭観音であるという。私は二つまとめて庚申塔だと思っていたが、左の像の頭上には馬頭の痕跡があるそうだ。しかも驚いたことに、明治六年の銘があるという。江戸時代のものだとずっと思っていたが、明治になってから建てられたものなのだろうか。馬頭観音は馬を供養するために造られるものである。目黒通りは、古くは二子道という。馬の行き交うような通りであったことが窺える。
 右は紛れもなく庚申塔であるという。青面金剛が彫られているからである。江戸時代に流行した庚申信仰は、地縁的な講集団が六十日毎の庚申の夜に集まって、青面金剛に祈るものである。この辺りにもそうした集会を行う講があったのだろう。私の足許にも、しっかりと歴史は刻まれている。それを改めて実感できた最初の旅であった。

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by ebara_explorer | 2007-05-30 18:45 | 石造物