カテゴリ:古道( 3 )

鎌倉みち

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 太子堂八幡神社の由緒で「鎌倉道」が出てきた。これは一般に、鎌倉街道と呼ばれるものである。鎌倉に幕府が置かれてから「鎌倉に通じる道」として呼ばれるようになったものだ。

 荏原にも鎌倉街道に該当する道が何本かあることは知っている。だから、その鎌倉街道を辿ることも、このたびの一つのテーマであるとは認識している。

 しかし、鎌倉街道というのは一本ではない。実際、荏原のある武蔵国には大きく上道、中道、下道の三つがあったことが知られ、荏原には中道、下道の二本が通っていたとされる。ただ、それらも一本ではなく途中で枝分かれしたり、またくっ付いたりしている。

 その上、定義が「鎌倉に通じる道」という曖昧なものだから、はっきりしないところも多いと思う。その時々で力を持った者が、自分のところを通る道を「ここが鎌倉道である!」と言えばそこになっただろうし、また別のところの者が力を持てばそちらへ道筋が変わったかもしれない。要は「これこそ鎌倉道!」というものがないように思う。

 ましてや荏原は現在、急速に宅地化が進んだ地域である。往古の道筋などお構いなしに、幹線道路や建物が次々とできている。江戸時代の道筋を追うことだって、今や至難の業であると言える。鎌倉時代からの道筋を追うことは、もっと大変だ。

 だから、この荏原の旅でも「荏原の鎌倉街道の道筋を完全復元しよう!」などと大それたことは考えないつもりである。

 とはいえ、荏原にも鎌倉街道に関する手がかりはいろいろと残っている。現に太子堂八幡神社の西側の道が「鎌倉道」だったという言い伝えがあったり、その先の道が今も「鎌倉通り」と名付けられたりしているということである。そのような手がかりから、部分的に鎌倉道を追ってはみたいと思う。

 もう一つ近いところでは、駒留八幡神社に近い蛇崩川に「鎌倉山橋」と名付けられた橋があった。蛇崩川は暗渠となっているが、その暗渠上の緑道に「鎌倉山橋」と書かれたポールが立っている。こういうところから、その蛇崩川を横切る道が鎌倉道であった可能性を探ることもできる。実際、この道を北へ辿ると、世田谷通りへ出る直前の左手に庚申塔、馬頭観音、富士講記念碑という史跡の並び立っている一角があり、古くからの道であることが知れる。

 ちなみにここは環七通りの若林陸橋に程近く、蛇崩川と烏山川の分水嶺になっているところだ。そのような嶺上に、庚申塔、馬頭観音、富士講記念碑が固まっているのは興味深いことである。

 このように、地名や橋の名、寺社や史跡の場所から、鎌倉道を追っていくのは楽しそうだ。荏原の歴史を知る一助にもなる。古道めぐりの一環として、これから鎌倉道探索に取り組んで行きたいと思う。



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by ebara_explorer | 2008-04-02 19:50 | 古道

九品仏みち

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 千束八幡神社を見学した後、洗足池の池畔を巡って中原街道へ出た。街道沿いを西へ向かって少し歩いて行くと、沿道に「庚申塚」と書かれた大きな石塔が見えてきた。大田区南千束二丁目二十九番地である。予期していなかったところに史跡が現れ、驚いた。

 大田区教育委員会により設置された案内板によると、この石塔は文化十一年(1814)に建てられた庚申供養塔であるという。塔は角柱型になっているが、このような形は江戸時代後期に特徴的なものだそうだ。

 背面には建立のいわれが刻まれている。品川の御忌講の人々が建てたとされている。御忌講とは、案内板によれば浄土宗を信仰する人々であるという。

 注目すべきは、塔の右面に「従是九品仏道」と刻まれていることである。この塔は中原街道から分岐する道の角に建てられている。庚申供養塔という信仰のものであると同時に道標の役割も果たしているわけである。「従是九品仏道(これよりくほんぶつみち)」ということは、ここから九品仏浄真寺へ向かう道が中原街道より分岐していたことになる。

 大田区教育委員会は「この地点が中原街道から浄真寺に至る旧道の分岐点に当たることは古い地図からも確認できる」と案内板に書いている。私はそれを読んだ瞬間、その場で「古い地図」を見たくなった。同時に、この「九品仏道」探訪というテーマができたことにこの上ない歓びを覚えた。ワクワクしてたまらなくなってきた。必ずこの旧道を突き止め、九品仏浄真寺までたどり着きたいと思っている。

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by ebara_explorer | 2007-06-24 23:59 | 古道

品川道を追って

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 前回取り上げた庚申塔は、目黒通りとそこから分岐する通りの角に位置している。分岐する通りは目黒通りから南東へ斜めに伸びていて、庚申塔のある角は鋭角になっている。区の庚申塔案内板によれば、この地を「中根西三叉路」というそうだ。ここに古くからの庚申塔があることから推測されるとおり、二つの道は古道である。

 現在の目黒通りは二子道と言って、目黒から二子玉川へ通じる古道であった。鎌倉街道の一つであるとも言われているが、その辺りの考察はまた別の機会にしたい。ここで注目したいのはもう一つの道である。これを品川道というそうだ。

 この道が古道であるということは、幼い頃から知っていた。郷土史のガイドブックに書いてあったように記憶している。実際、幅が中途半端に広いし、道がまっすぐでない。沿道には大きな老木があったりする。それに史跡も多い。

 庚申塔の先をたどって行くと、東急東横線の線路を踏切で跨ぎ、そのすぐ先には立源寺という日蓮宗の古刹がある。お寺の先で道は下り坂となる。呑川の谷に下っていくためである。その坂の途中に大きな家がある。岡田家という江戸時代の名主の家だという。この家の門は長屋門といって、江戸時代に建てられたものがそのまま残っている。小学生の頃に見たときはずいぶん大きな門に見え、驚いたものである。

 坂を下りきって呑川を越えると、今度は上り坂となる。鉄飛坂という名が付いている。鉄飛とは、この坂の上辺りの地名だそうだ。かつてポルトガル人のテッピョウスが住んでいたとか、鉄砲鍛冶がいたからこのような地名になったと言われている。どちらにしても珍しい由緒のある坂だ。坂の途中にはまた庚申塔があって、帝釈堂というお堂に納められている。

 帝釈堂からさらに道なりに行くと、環状七号線にぶち当たる。環七との交差点には信号がなく、大通りの中央分離帯は柵で分断されている。古道が現代の大通りによってぶった切られている格好だ。

 この先、古道はどういう道筋をたどっているのか、まだ確認はしていない。品川道というからには、必ず品川までつながっているのだと思う。ぜひ品川まで踏破したいと小学生の頃から思ってきたが、そのままになっている。 この探訪の続きを、これから再開したいと思う。

(写真は品川道に面する岡田家長屋門)

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by ebara_explorer | 2007-06-12 21:40 | 古道