カテゴリ:お稲荷様( 17 )

滝王子稲荷神社

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 大井原の水神池と品川歴史館を結ぶ道の途中から少し北へ入ったところに、滝王子稲荷神社というお稲荷様がある。滝王子とは、この辺りの地名のようである。近くの消防署の出張所にもその名が見えた。

 滝王子の名は、昔この付近に滝氏という一族が住んでいて、稲荷社と王子権現を祀っていたことに由来するともいわれている。滝王子稲荷神社は、もともと滝氏の屋敷神だったのかもしれない。

 社はひっそりした住宅街の中に鎮座していた。ガランとした境内の奥に小さな社殿がある。赤い幟がたくさん奉納されているところがお稲荷様らしい。

 境内の片隅には、小さな池もあった。湧水池だそうで、池の真ん中に石が積み上げられていた。これはかつて弁天様が祀られていた名残ではないだろうか。
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 また、境内には大きな木が一本あった。タブノキというそうで、暖地の海岸に多く見られる種類であるという。この辺りがかつて海に近かったことを示すものではないかと思った。

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by ebara_explorer | 2008-12-27 17:38 | お稲荷様

浦守稲荷神社

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 三輪厳島神社から産業道路に沿って南へ下り、森ヶ崎へ向かうバス通りを西へ向かうと、前の浦という交差点に出る。現在ではここから海岸までまだ少し距離があるが、かつてはこの辺りが海岸であったことをうかがわせる地名だ。この前の浦の近くを羽田道という旧道が通っている。東海道から羽田弁天社を結ぶ道筋であったという。その途中にあるのが、浦守稲荷神社である。
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 面白い名前のお稲荷様だと思った。浦守という名から「浦を守る」という意味合いが浮かんでくる。穴守稲荷神社のいわれに通じるところがあるように思われる。境内の由緒書きによれば、今からおよそ三百年前に創建されたというから江戸時代の中期の頃のことであろう。当時、この辺りは海辺の茅原で、周辺に農業や漁業に営むわずかな人々が住んでいたという。それらの人々が稲荷を祀ったのが起源とされている。その後宝暦年中(1751-1764)になって、前の浦の開拓に熱心であった伊東藤兵衛大人の努力により、神社の設備も整ったそうだ。

 明治になると神徳が都内まで広まったそうで、また境内の一隅に白蛇弁天が出現したので、土地の人々はもとより京浜間の信仰する者が「弥栄弁天講」を作り、年々団体で参拝するようになったということである。稲荷信仰と弁天信仰が密接に関わっていると言える神社ではないだろうか。境内の一隅には、紅い鳥居のお稲荷様と対照的な、白い鳥居を持つ白蛇神祠が祀られていた。

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by ebara_explorer | 2008-10-02 18:07 | お稲荷様

野沢稲荷神社

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 環七通りの龍雲寺交差点から路地を一本裏へ入ったところに、お稲荷様がある。野沢稲荷神社だ。創建の由緒は不明であるが、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には野沢村の鎮守であると記されているという。世田谷のお稲荷様は村の鎮守になっていることが多い。この野沢村の名は、この地を開拓した葛飾領東葛西の野村治郎右衛門と六郷領沢田の田中七右衛門の二人の名から採ったものだそうだ。人の名前に由来する地名とは知らなかった。
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 境内に入ると、正面に本殿が建ち、右手には神楽殿もあった。荏原の稲荷神社としては立派な境内である。また、背の高い木が何本もスッと早春の空に向かって立っており、歴史を感じさせる杜であった。

 境内の北端に庚申塔があった。庚申塔には「元禄八年 野沢村」と記されているそうだが、塔は小さな堂に大切に納められており、年号を確認することはできなかった。この元禄八年(1695)という年号は、野沢村の成立を知る上で貴重な資料だそうだ。



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by ebara_explorer | 2008-05-14 19:23 | お稲荷様

若林稲荷神社

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 太子堂八幡神社の社前から烏山川の緑道を西へ少しさかのぼると、稲荷橋跡がある。そのすぐ北側に紅い鳥居が見える。これが若林稲荷神社である。由緒としては江戸時代中期の明和六年(1769)に社へ土地が奉納されたという記録があり、その頃もしくはそれ以前からあったことが知られている。

 紅い鳥居をくぐり、狐様のお出迎えを受け、朱塗りの本殿に参る。どこから見ても稲荷神社であるが、本殿の額を見ると「稲荷神社 天祖神社」と書かれていて、ちょっと驚いた。

 これは、もともと代田にあった神明社を合祀したものだという。神明社は常林寺という寺の内宮だったそうだが、明治十年(1877)に常林寺が焼失してしまったため、この稲荷神社に合祀されたということである。だからここには、稲荷神社の倉稲魂命と天祖神社(神明社)の天照大神が祀られていることになる。お稲荷様めぐりと天祖神社めぐりをしている私からすれば一挙両得ということになるが、一緒に祀られている神様は、どのように感じているのだろうと思った。
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 本殿は新しくてきれいなものであった。これは昭和五十九年(1984)に再建されたものであるという。以前の本殿は昭和二十年(1945)三月十日の空襲で焼失してしまったのだそうだ。その後、他の神社からお宮を買い取り移設していたが、ようやく二十年程前に再建されたということである。



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by ebara_explorer | 2008-03-26 21:28 | お稲荷様

穴守稲荷神社

 地図上で荏原を眺めていると、いつしかお稲荷様の多いことに気付き、八幡宮めぐりとともにお稲荷様めぐりもしてみようと思い立った。そして、地図や資料を駆使して、荏原のお稲荷様リストを作っていった。リスト作りにはそのうち異様なまでに熱心になった。狐様に取り憑かれていたのかもしれない。気が付くと、荏原の中で見つけたお稲荷様の数はなんと138に上っていた。これはとんでもないことになった。すべてをめぐることができるだろうか。不安になってきた。 


 そんな中、荏原で最も有名な稲荷神社といえばどれだろうと考えた。それはやはり穴守稲荷神社であろう。京浜急行の駅名にもなっているし、かつてはかなり隆盛を極めた社のようである。それで、荏原のお稲荷様めぐりをしていく上で、早いうちに行ってみようと思い立ち、出かけた。

 穴守稲荷神社は江戸時代後期、現在の羽田空港敷地内にあった鈴木新田の堤防に穴があかないように田畑を守る神として祀られたのが始まりとされている。それまで鈴木新田では、暴風や津波のたびに堤防の空穴から海水が浸入して、大きな被害を受けていたそうだ。そこで、堤防の「穴を守る」という意味を込めてこの社が建てられたという。

 明治時代になると、地元の有志が社の振興策として公衆参拝の許可を得た。すると神社は、魚貝業者や花柳界、さらに一般の商売繁盛祈願の人々の間で大流行となったそうだ。広大な土地に社殿が新築されるとともに、海岸という場所柄にも恵まれて、海浜リゾートやレジャーとあいまって発展したという。その後、付近で鉱泉が掘り当てられたため、料亭や旅館、芸妓の置屋などが進出し、周辺は大繁華街となったそうだ。また京浜電車が社前まで乗り入れ、参道にはおびただしい数の茶店や土産物屋が並んでいたということだ。

 しかし昭和20年(1945)9月、進駐米軍によって現在の羽田空港一帯が接収されることとなったため、穴守稲荷神社は強制退去を命じられた。そのため近くの羽田神社へ合祀されてしまった。その後、現在地に再建されたが、もはや昔日の面影はないと言えるだろう。尚、現在も羽田空港内には大きな鳥居がかつての穴守稲荷神社の遺物として残っているという。


 現在の最寄り駅は京浜急行空港線の終点羽田空港駅から二つ手前の穴守稲荷駅である。今は空港へのアクセスを主目的としているこの路線も、その始まりは穴守稲荷神社参詣のためであったと言える。

 駅から神社までは少し距離がある。だが、駅舎を出るとさっそく目の前に紅い鳥居が見えてきた。有名な観光地みたいで、ちょっとうきうきしてきた。しかし、神社の方へ向かう道は狭かった。道が合っているのかどうかと不安になりかけたころ看板が現れ、あと100m程とのことであった。そのまま道を進んだが、境内の南側入口を通り過ぎてしまった。というのも、入口の鳥居に青い覆いがかけられていて、それと気付かなかったからである。この覆いは境内の一つを残して他の鳥居にもかけられていた。訪れたのは師走であったから、正月に向けて鳥居の朱を塗り直していたのであろうか。
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 参道を奥へ進む。境内は広い。と言っても、荏原の他の鎮守と同じくらいの広さではある。しかし、街中の小さなお稲荷様ばかり見てきた身からすると、稲荷神社としてはうんと広く感じられる。ただ、かつての繁栄が大きかっただけに、その殷賑も今はいずこであり、訪れる参拝客はまばらであった。それでも正月ともなれば大混雑になるのであろうか。
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 狐様に見守られながら正面の拝殿にお参りを済ませ、拝殿の右手に回ると、紅い鳥居がぎっしりと立ち並んでいた。こういうところはいかにもお稲荷様らしい。
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 恐る恐る鳥居の暗闇を潜り抜けて行くと、奥の宮(お穴様)があった。拝殿前の案内板によれば、ここの砂を持ち帰ってまくと、営業繁昌、家内安全、病気平癒等の神徳が得られるとのことであったが、そこにはおびただしい数のミニチュアの鳥居が奉納されていた。こういうものを見ると、人々の祈りというものがグッと伝わってくる。
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 奥の宮の裏手にはさらに道が続いていた。細いところへ入って行くと、岩山のようになっていた。途中には「福徳稲荷社」や「幸稲荷社」といった小さな祠が並んでいる。その一つ一つへ丁寧にお参りして行く人の姿も見られる。どれもめでたい名なので、私もついつい手を合わせて行った。まるで巡礼のようである。
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 そして上り詰めたところには何と御嶽神社があった。これはお稲荷様とはまた別物である。何を意味するのであろうか。そういえば道の途中には富士講碑のようなものもあった。それは御嶽講のものであったのだろうか。どうやらこの奥の宮は穴守稲荷神社がこの地に遷座される前から存在していたようである。奥の宮は、そうした以前からの信仰と、新しい穴守稲荷の信仰が複雑に絡み合っているのではないだろうか。
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 参道を引き返して南側の入口近くまで来ると、また別の碑を見つけた。いくつかの碑には「宝珠講」と書かれていた。これはどんな講なのであろうか。いろいろと興味深い穴守稲荷神社であった。

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by ebara_explorer | 2008-02-08 20:49 | お稲荷様

上野毛稲荷神社

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 東急大井町線の上野毛駅前から環八通りを渡り、バス通りを進むと、道は急な下り坂になる。その坂の途中の右手に稲荷神社がある。上野毛稲荷神社という。

 訪れた師走の初旬、境内の木々が見事に色付いていた。鳥居をくぐって古い石燈籠の間を抜けると、正面にある社殿へ右から覆いかぶさるようにして色とりどりの木々があった。私自身、この秋初めて触れる紅葉でもあった。
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 境内はわりと大きく、参道の両側は広々としていた。その先にぽつんと社殿がある。ちょっとお稲荷様らしくない境内である。紅い鳥居も、狐様もいない。社殿に近付き、思わず額を確認すると、確かに「稲荷神社」と書いてあった。ただ、社殿の戸は閉ざされ、内部を窺い知ることはできなかった。
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 上野毛稲荷神社は、現在はこの辺りの鎮守となっているが、もともとは吉良氏の家臣であった田中筑後の代々の氏神として祀られていたという。屋敷神ということであろうか。この辺りに田中筑後の屋敷があったのだろう。この社は屋敷神が地域の鎮守にまでなったという例である。

 ところで境内のあるところは、多摩川沿いの急崖の中腹に当たる。かつては多摩川の川原が良く見渡せたのではないだろうか。吉良氏の家臣である田中筑後がここに居したのも、交通の要路であった多摩川に対して睨みを利かせるという役割があったのではないかと思う。

 社殿の右隣には「北野神社」と刻まれた石碑があった。近くにあった北野神社がここに合祀されたものであろうか。

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by ebara_explorer | 2008-01-06 16:42 | お稲荷様

笠森稲荷神社

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 戸越八幡神社のすぐ近くに、小さな稲荷神社があった。笠森稲荷神社という。数本の紅い鳥居の間に、幟がびっしりと並んでいた。

 この「かさもり」という名は、地図で稲荷神社を探していたとき、他の場所にもあったように思う。どういう意味があるのだろう。思い出すのは以前に訪れた世田谷区瀬田の瘡守稲荷神社である。この社では「かさもり」に「瘡守」の字が充てられていた。ここではっと思った。瘡守の「瘡」の字は疱瘡の「瘡」ではないか。先ほど訪れた戸越八幡神社には、疱瘡の治癒にご利益を求める信仰があった。戸越八幡神社に近いこの笠森稲荷神社にも、同様の効験があって「かさもり」と名付けられたのではないか。稲荷神社では、例えば「稲荷森」が「十日森」となるように、読みが同じで他の字が充てられることもある。ここの「笠森」も、もとは「瘡守」で疱瘡の治癒に対する信仰があったのではないか。そんな気がしてきた。

 幟に気を付けながら小さな鳥居をくぐって祠に参ると、このお稲荷様にはたくさんの狐様がいらっしゃった。

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by ebara_explorer | 2007-10-31 23:38 | お稲荷様

笠間稲荷神社

 東急東横線中目黒駅前から山手通りを北へ行き、二つ目の信号の角を右に曲がると目黒川に出る。ここに架かる橋を渡った左手に稲荷神社があるのを、地図で見つけていた。

 しかし現地に行ってみると、そこには大きな集合住宅が建っていた。本当にお稲荷様があるのかと、不安になりながら橋を渡って行く。

 角の集合住宅の裏口にさしかかると、奥に紅い鳥居が見えた。これだ。集合住宅の敷地内ではあるが、お参りだけさせてもらおうと、そこへ入った。

 集合住宅裏手の一隅に、ちょこんとお稲荷様はいらっしゃった。鳥居の額に「笠間稲荷」と書かれている。これが地図に書かれていたお稲荷様だ。名前も一致している。
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 地図上で鳥居のマークだけを見れば、参道があって、本殿があって、という社をイメージする。だが、そこにあったのは本当に小さな社殿だけであった。それはまるで、この集合住宅の屋敷神のようであった。

 通りへ出て、目黒川に架かる橋の方へ戻る。橋の名を宿山橋という。ここはかつての鎌倉街道であるとも伝えられている。道を北へ行けば、豊島郡の渋谷へとつながっている。鎌倉街道探訪はいずれまた行うつもりなので、そのときはまたここへ来るはずである。

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by ebara_explorer | 2007-09-14 21:21 | お稲荷様

旗の台伏見稲荷神社

 旗の台駅周辺にはもう一つ稲荷神社がある。中原街道沿いを南へ下って、東急大井町線のガードをくぐると、左手へ入る道に「稲荷通り」という名が付いている。
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 この通りは別名「三間通り」といって、商店街になっている。通りへ入ると、稲荷神社はすぐにあった。社殿は少し奥まったところに鎮座していた。

 神社の名を「旗の台伏見稲荷神社」という。全国の稲荷神社は、伏見稲荷神社を分祀したものであるといわれるが、その「伏見」の名をそのまま社名に持ってきているのは珍しい。
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 小さな社殿の前に貼られた由緒書きを見て驚いたのは、創建年代である。大正十五年(1926)のことだという。近代以降にもお稲荷様は創建されていたとは、意外である。

 由緒書きによれば、このお稲荷様は霊験あらたかであるという。太平洋戦争の折に、この旗の台伏見稲荷神社に出征祈願をし、戦地に赴いた百二十人は、全員が生還したそうだ。また、お稲荷様の鎮座する旗の台南町会は、この地域が激しい空襲を受けたにも関わらず、安泰であったという。
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 そして現在、この商店街はなかなか賑やかで、繁盛しているように見える。荏原町駅付近まで続く三間通り沿いを歩いたが、活気のある通りだった。これもお稲荷様のご加護があってこそなのかもしれない。



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by ebara_explorer | 2007-09-08 23:45 | お稲荷様

木霊稲荷神社

 久しぶりにお稲荷様めぐりに出かけた。今回の目的地は旗の台である。

 旗の台駅の北口から、商店街を抜け中原街道沿いに出る。通りを少し北へ向かうと、レストランの陰に小さな祠が見えた。旗の台一丁目二番地にある木霊稲荷神社である。
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 祠は何とも小さかった。しかもレストランの建物がせり出していて、圧迫されているようでもある。私が今まで「稲荷神社」という名前で訪れてきた社の中では、一番小ぢんまりとしている。狐様も小さかった。

 祠の脇に「木霊稲荷神社縁起」と書かれた木札が立っている。このような小さな社のいわれを是非知りたい。そう思って読もうとしたが、札の字はにじんでいて、ほとんど判別がつかない。わずかに最初の「この地に・・こと五百年」というところと、途中に「伏見」という文字が見えるだけだ。しかもこの札は腐食を防止するためか、透明のケースに覆われている。それが夏の日差しに反射したりして、余計に見にくい。

 人通りの多い街道沿いで、私はしばらく木札と格闘していたが、縁起の判読は諦めた。きっと何かの文献に、この縁起が記されていることと思う。それを絶対に探し当てようと思った。

 祠の裏手に回ると、別の案内板が立っていて「中原街道高札場跡」と書かれていた。中原街道沿いのここに江戸時代、高札が立っていたようである。案内板によれば、江戸時代から大正時代まで、この地の俗称を「札場」といったそうだ。
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 さらに道を隔てた反対側の物陰には、庚申供養塔がひっそりとあった。寛文五年(1665)旧中延村庚申講中造立の銘がある。これは今まで見てきた庚申塔とは違う。青面金剛が彫られていない。猿もいない。日も月もない。代わりに石塔の真ん中には題目が刻まれている。日蓮宗のものだ。傍らの案内板には、この辺りの旧中延村が「全村のほとんどが日蓮宗といわれる」と書かれていた。またも、日蓮宗の影響の強さを思い知らされる史跡であった。
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 供養塔の土台には、小さな箒が立てかけてあった。花も水も供えてある。近所の人が毎日手入れしているのだろう。

 それにしてもここは、稲荷神社、高札場、庚申供養塔と、史跡が固まっている。中原街道の中でも、人の集まるところだったのではないだろうか。車が行き交う現代の騒音の向こうから、江戸時代の街道を行く人々の雑踏が聞こえてくるような場所だ。



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by ebara_explorer | 2007-09-07 22:41 | お稲荷様