カテゴリ:お稲荷様( 17 )

西守稲荷神社

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 田園調布とお稲荷様、何とはなしに似つかわしくない取り合わせである。しかし田園調布にもちゃんとお稲荷様はいらっしゃる。私の稲荷リストにも載っている。

 それを訪れるため、東急東横線の多摩川駅で降り立った。駅前から東急多摩川線の踏切を渡る。すると急坂にさしかかる。これを富士見坂という。この辺りは富士山を見るのに良い場所だったのだろう。先日訪れた多摩川浅間神社もここから程近い。

 坂はカーブしていて、先が見えない。この先ものすごい傾斜になっていたらどうしようと考えながら上って行くと、あながちその不安が外れてはおらず、けっこうな急坂であった。

 上り切ると静かな住宅地となる。交差点を渡って東へ進むと、住宅の中にお稲荷様がある。西守稲荷神社という名前だ。

 これまで見てきたお稲荷様のように、境内はさほど広くない。また児童公園も兼ね備えていて、すべり台やブランコがある。その奥にちょこんと社殿が置かれている。特に由緒書きもない。
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 奉納された紅い幟が風にぱたぱたと揺れる中お参りをして、狐様を眺めてから境内を出ると、隅に案内板のようなものがあった。「神代(やしろ)、お狐、鳥居、玉垣、等大切にしてください」、「境内及び塀際に物を置かないようにしてください」という注意書きの下に「西守稲荷講」と書かれている。このお稲荷様の講があるということだろうか。これは興味深いことに思われた。

 神社を出てさらに東へ向かうと商店街に出た。この通りの名を六間道路というようだ。昔からありそうな道である。この通りはすぐに中原街道へ合流している。

 中原街道に沿って、今度は西へ向かう。すぐ目の前が多摩川の河川敷で、丸子橋が架かっている。西へ歩きながらふと「西守」とはどういう意味かと考えてみた。文字通りに捉えると「西を守る」ということになる。西にある多摩川の向こうから来る何かを守るということなのだろうか。そんな考えを巡らせているうちに、川沿いの多摩堤通りに出た。



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by ebara_explorer | 2007-08-10 22:41 | お稲荷様

下山稲荷神社

 瘡守稲荷神社から来た道へ引き返し、玉川病院沿いの急坂を下って丸子川沿いへ戻る。そのまま西へ向かうと、下山橋という橋がある。ここから道を少し入ったところに静嘉堂文庫がある。明治の実業家である岩崎弥太郎の文庫があったところで今は彼のコレクションを展示する美術館となっている。寄ってみたいところだが、開催中の展覧会はさほど興味がないので今回は行かない。それよりも稲荷神社だ。この近くの瀬田四丁目四十一番にも稲荷神社がある。すっかり私はお稲荷様に取り憑かれている。

 鬱蒼とした木立の縁を回って急な坂を上り切ると、その木立への入口があった。瀬田四丁目広場とある。稲荷神社はこの辺りのはずだが、広場の中にあるのだろうか。広場に人影はなく一般の民家のようでもあったが、お稲荷様を見たい一心で中へズンズン入る。

 正面に建物があった。旧小坂家住宅という古い建物で、内部を公開しているようであったが、私の足は右手の庭の方へと向いていた。庭に稲荷神社があるのではないかと思う。庭と言っても、木々が生い茂っていて暗い。入口に、虫除けスプレーをしていくようにという案内があったが、ともかくもそのまま突き進む。

 川へ向かった斜面を下って行く。さっき坂を上ったばかりなのにまた下ってしまうのはもったいない気がしてきた。木々に日差しを遮られ、足元はジメジメしてくる。一歩一歩気を付けながら、道ともつかない斜面を下る。
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 下り切ると竹薮になった。かつての荏原はいづこもかくありなむ、などと思いながら歩を進めると、一番奥の角に何やら史跡の案内板が見えてきた。しめた、と思う。

 近寄ると庚申塔があった。また嬉しくなる。庚申塔は昔から好きだ。案内板によると、二基ある庚申塔はもともと、ここから近い玉川四丁目の幽篁堂庭園というところにあったそうだ。庭園が平成十三年(2001)に廃止された際、世田谷区に寄贈されたので、ここへ移ってきたと案内板に書かれている。

 幽篁堂庭園には添景として石造物が多くあったのだという。ということは、この庚申塔が古来その庭園の場所にあったとは思えない。どこからか持って来たものなのかもしれない。それでも、この瀬田四丁目や玉川四丁目近辺に存在していたように思う。一基には慈眼寺の近くで見た庚申塔と同様、笠が付いている。
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 笠のある一基には青面金剛と三匹の猿が彫られている。よく見るタイプだ。だがもう一基には一体の猿が大きく彫られている。これは珍しい。猿は薄ら笑いを浮かべているようでもある。
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 面白がって屈みながら眺めていると、腕の辺りに蚊が山ほど寄ってきていた。たまらず振り払うが、後から後から蚊がやって来る。猿とゆっくり対面する余裕はなかった。

 庭の中に稲荷神社はなかったので、早々に退散する。再び傾斜を上り、暗い木立から抜け出たときはホッとした。

 広場の入口を出て、塀に沿って歩いて行くと、ようやく木立の中に赤い鳥居を見つけた。旧小坂家住宅の敷地の北東隅である。木々に隠れるようにして、小さな社殿があった。ここは下山稲荷神社という名が付いているが、まさにこの小坂家住宅の「屋敷神」というくらいの小ぢんまりしたものであった。稲荷神社の原形を見る思いがした。
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 鳥居をくぐって木立に入った私は、また蚊が寄って来ないうちに外へ出ようと、急いでお参りを済ませた。


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by ebara_explorer | 2007-08-04 11:12 | お稲荷様

瘡守稲荷神社

 荏原の史跡めぐりは自在である。思い立ってふと好きなところへ出かけることができる。前後の脈絡はない。好きな順に好きなところへ行けば良い。

 この日は二子玉川へ出かけた。二子玉川周辺にも名所旧跡が点在している。まずは駅前の玉川通りを北へ向かう。左から高架橋が寄って来た辺りで、通りは小さな川の流れとぶつかっている。丸子川という。この川沿いが今回の目的地である。

 玉川通り沿いの歩道から階段を下りて丸子川の流れに行き着く。細い川は、夏の日差しの下で淀んでいた。川に沿って西へ歩き、一つ目の橋を渡って北へ向かう。川から離れれば、道は上り坂となる。上り始めると余計に暑く感じられる。熱せられたアスファルトがむんむんとしてくる。

 左手に社が現れた。瀬田玉川神社という。玉川神社と名乗る社は、多摩川沿いにいくつかある。お互いが関係しているのかどうか、まだ調べてはいない。暑いのでともかくも木立のある境内へ入る。

 高台にあるこの社の南側が、丸子川そして多摩川へ向かった斜面になっている。本来ならば多摩川の広い河原を見通すという眺めになるはずだが、今は境内のすぐそばまでぎっしりと住宅が建ち並んでいる。川の流れはまったく見えなかった。

 暑さの余り癒えないまま裏手から境内を抜けると、慈眼寺という小さな寺が隣接していた。ちょうど参道の工事をしていて中へ入りづらかったので、そのままやり過ごしてしまった。後で知ったことだが、この寺は中世からの歴史をもつ古刹であった。惜しいことをした。

 寺の前の細い路地を抜けて辻に出ると、庚申塔があった。瀬田四丁目十一番地の角である。辻に庚申塔は付き物であるが、予期せぬところで出会ったので急に嬉しくなる。
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 二基の庚申塔のほかに「笠付庚申塔」と書かれた碑が建っていた。見ると大きな方の庚申塔には確かに笠が付いている。このような庚申塔を見るのは初めてだ。小さい方の庚申塔には「享保」の年号が読み取れた。荏原の庚申塔ではよくこの「享保」の文字を見かける。享保年間は庚申塔建立のブームだったのだろうか。

 道をさらに北へ向かう。目指すところはお稲荷様である。しばらく行くと信号のある角が見えてきた。そこが「稲荷神社前」という交差点だ。この手前の左側に稲荷神社はある。瀬田四丁目三十二番地にあたる。

 狭い境内は街角の児童遊園のようになっており、すべり台などがある。そして一番奥に社殿が小ぢんまりとある。公園の一角にお稲荷様があると言った方が良いかもしれない。
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 社の名を瘡守稲荷神社という。読み方がよくわからなかったが、境内には「かさ守稲荷神社」という案内板が出ていた。「かさもり」と読むのだろう。

 地図上で見つけたときから珍しい名だと思っていたが、いったいどのようないわれがあるのだろう。境内には何の案内もなかった。ただ、瘡は「きず」とも読む。お参りすると傷が治るとか、そういういわれが想起された。



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by ebara_explorer | 2007-08-01 22:53 | お稲荷様

本町稲荷神社

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 大田区西馬込二丁目の「西二稲荷」に参った後、さらに稲荷めぐりを続けた。都営地下鉄浅草線の西馬込駅前から国道1号線沿いを南へと歩く。この先の左手には古刹池上本門寺の広大な寺域が広がっている。

 荏原の史跡めぐりにおける池上本門寺の重要性は痛いほどわかっている。だが、その存在があまりにも巨大であるため、まだ正面から向き合って池上本門寺と対峙できていない。こうして周りをウロウロしているだけである。

 次の目的地である稲荷神社は、その本門寺境内の端にある。池上一丁目三十四番地にある本町稲荷神社だ。

 神社に着いてみると、境内のほとんどは駐車スペースに割り当てられていた。まるで駐車場の中に社殿があるような感じであった。ここの駐車場はお寺の関係者が使っているのであろうか。

 稲荷神社のいわれを記したような案内板も特にない。本町という名のいわれもわからなかった。ただ、社殿の背後にはすぐ本門寺の木立が広がっている。この稲荷神社は、本門寺境内に祀られたお稲荷様というふうにも見えた。

 神社の前の道を西へ抜けると、本門寺の正面参道に出た。何度か訪れたことのある参道である。しかし、今日はまだ本門寺へは参らない。荏原の史跡めぐりとして本門寺を訪れる準備ができていないように思われる。

 古刹の大きな存在を背中に感じつつ、私は呑川を渡って帰途に就いた。これでこの日の八幡宮めぐりと稲荷めぐりは終わった。


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by ebara_explorer | 2007-07-29 22:14 | お稲荷様

西二稲荷神社

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 久が原近辺の八幡宮めぐりとして、西部八幡神社、東部八幡神社、道々橋八幡神社、子安八幡神社と回った。これで八幡宮めぐりは終わったが、近くに稲荷神社があるので寄ってみた。ここからはお稲荷様めぐりである。

 子安八幡神社から坂を上って下りて、住宅街の中にある小ぢんまりとした稲荷神社に着いた。八幡神社はいずれも坂の上にあったが、稲荷神社はこうして坂の下にある。

 地図上には「稲荷神社」とのみある社である。だが、奉納された鳥居の根元を見ると「西二稲荷」と小さく書かれていた。ここは大田区西馬込二丁目十八番地である。「西二稲荷」は通称なのかもしれない。

 境内には三基の庚申塔が並んでいた。左側の塔には元禄十五年(1702)、右側の塔には享保六年(1721)の年号が刻まれていた。中央は一段低い庚申塔であったが、年号は読み取れなかった。
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 小さな稲荷の境内に庚申塔があるというのは、私がお稲荷様めぐりとして最初に訪れた桜森稲荷神社と同じである。稲荷神社と庚申塔はどのような関係があるのだろうか。あるいは、近所にあった庚申塔が区画整理などで稲荷神社の境内に集められただけで、両者はあまり関係がないのかもしれない。稲荷神社と庚申塔については、これからもっと多くの稲荷神社を巡って、その関係を明らかにしていきたいと思う。

 いずれにせよ、庚申塔-稲荷神社-八幡神社-日蓮宗-庚申塔と、この辺りではいろいろな信仰が絡み合っている。


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by ebara_explorer | 2007-07-28 21:46 | お稲荷様

十日森稲荷神社

 先日、近所の桜森稲荷神社を訪れ、稲荷神社についても探っていこうと思い立って以来、私は荏原の稲荷神社を片っ端から探し始めた。まるで狐に取り憑かれたかのように、地図上を睨んで「稲荷神社」の文字を求め続けた。インターネットの検索も駆使して、荏原の中におよそ八十の稲荷神社を見出した。これで私の中の狐は満足したらしい。荏原稲荷神社リストができあがった。

 ただ、これでも荏原の稲荷神社のごく一部に過ぎないだろう。私が探した稲荷神社は地図上に載っているものであり、また「○○稲荷神社」と何らかの呼称のついた社を中心に拾っているからである。それ以外に、地図に載らない小さな社や、民家の中に建つものもあるだろうから、実際の荏原の稲荷神社の数は、この何倍にもなるかもしれない。 

 先述のように、稲荷神社の数は非常に多い。数が多いということは、それだけ稲荷信仰が普及しているということである。そしてその信仰を積極的に流布・宣伝した活動があったということになる。稲荷神社の頂点に立つのは、京都にある伏見稲荷神社だ。この伏見稲荷を中心に稲荷信仰の宣伝活動が行われた歴史がある。

 また、信仰を受け入れる民俗的な基盤もあったとされる。お稲荷様といえば狐だが、古来狐は「田の神」もしくはその使者として信仰されていた。その狐の信仰がお稲荷様と結び付いたようだ。そういう意味では、お稲荷様は農業の神様と言えるが、実際には農業以外にも、漁業・商業神、託宣神・憑物・福神など、いろいろな形で信仰されている。

 こうなると稲荷信仰の在り方を知るのは難しいことだが、ともかくもお稲荷様めぐりもやって行こうと思う。

 さて稲荷めぐりとして最初に訪れたのは、目黒区中央町にある十日森稲荷神社である。かかりつけの病院から遠くないところにあるので、病院帰りに寄ってみた。
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 駒沢通りに面した社は広くなかったが、木々がこんもりと茂っていて風格はあった。案内板によると、この社は旧上目黒村五本木組の鎮守で、もともとは五本木の旧家の屋敷神を移したものであるという。現在でも民家の庭先に見られるような小さい社が、独立発展したものといえるのではないだろうか。屋敷神というのが稲荷めぐりのキーワードになりそうな気がしてきた。

 十日森という名の由来については、「稲荷(とうか)森」から来ているという伝説があるそうだ。なるほど、稲荷は「とうか」と読める。でも、稲荷の森ということは、かつてはもっと社が大きく森のようになっていたのだろうか。

 狐の出迎えを受け拝殿に参る。お参りを済ませ、写真を撮ったりしていると、短い間に一人、二人と近所のおばさんがお参りに来ていた。地元の信仰が篤いんだなあと感心した。

 こうして荏原の「稲荷めぐり」は始まった。しかし、八十もの稲荷神社をリストアップしてしまった。いくら近辺とはいえ、全部回ることができるのだろうか。大変なことになってきたと思う。でも、それ以上にワクワクして楽しくなってくる。ただ、お参りをした後、狐に笑われていたような気もした。

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by ebara_explorer | 2007-07-20 12:32 | お稲荷様

桜森稲荷神社

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 身近なところに、意外な史跡が隠れていることがある。

 自宅から最寄りである都立大学駅の少し先に、桜森稲荷神社という、小さな社を見つけた。家からまっすぐ自転車で行けば、五分余りで着くだろう。見つけたときは、史跡巡りのときではなかったので、その後改めてこの社を訪れてみた。

 小さな案内板には「この辺りの氏神様」だと書かれていた。また、一帯に桜が多かったのでこの名があるとしている。近くには呑川緑道の桜並木があるが、きっと昔はそれ以外にも桜の木がたくさんあったのだろう。桜の森とはいい表現だ。

 稲荷神社は農業の神様であると案内板には書いてある。そして二月の初午は今も盛況だと記している。初午はお稲荷様の縁日だ。こういう案内板の「今」が本当に今なのかはわからないが、もし現在も行われいるのだとしたら、ぜひ初午のときに来てみたいと思う。屋台や露店が出たりするのだろうか。

 ところで、稲荷神社は一説によると八幡宮よりも数が多いという。荏原の史跡を巡る旅においても、お稲荷様は看過できない。ただ、お稲荷様は一般の家の庭にあったりもする。だから、八幡宮めぐりのように全てを巡ろうというわけにはいかない。それでも、荏原の歴史を形成するにおいて、お稲荷様がどのような関わりを持ってきたのか、その辺りは探っていきたいと思う。

 桜森稲荷神社の小ぢんまりした境内には、二体の石仏があった。一見すると庚申塔のようであった。私はすぐに太陽と月が刻まれていないか探した。それが庚申塔の特徴だからである。一体には両方がすぐ見つかった。もう一体にはうっすら金色に染まった太陽しか見つからなかったが、磨耗した部分に月も彫られていたのだろう。両方とも庚申塔に違いないと確信した。私もだいぶ庚申塔に見慣れてきたなと一人で得意になった。
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 一方の庚申塔には文化七年(1810)の銘が、もう一方の庚申塔には享保十五年(1730)の銘が読み取れた。これも自分で読み取れたので、ちょっと気分が良かった。それにしても、享保といえば三百年近く昔だ。私は身近な場所に深い歴史を感じた。

 こうしてみると、荏原に庚申塔は多い。先に見た鉄飛坂の庚申塔群はこのすぐ近くである。きっとこうして今も残るものはわずかだろうから、江戸時代にはもっとあちこちにあったと思う。庚申信仰の根深さについても、もっと考えていかなければならない。


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by ebara_explorer | 2007-07-14 13:56 | お稲荷様