<   2007年 07月 ( 14 )   > この月の画像一覧

本町稲荷神社

e0123189_22132331.jpg

e0123189_22133984.jpg

 大田区西馬込二丁目の「西二稲荷」に参った後、さらに稲荷めぐりを続けた。都営地下鉄浅草線の西馬込駅前から国道1号線沿いを南へと歩く。この先の左手には古刹池上本門寺の広大な寺域が広がっている。

 荏原の史跡めぐりにおける池上本門寺の重要性は痛いほどわかっている。だが、その存在があまりにも巨大であるため、まだ正面から向き合って池上本門寺と対峙できていない。こうして周りをウロウロしているだけである。

 次の目的地である稲荷神社は、その本門寺境内の端にある。池上一丁目三十四番地にある本町稲荷神社だ。

 神社に着いてみると、境内のほとんどは駐車スペースに割り当てられていた。まるで駐車場の中に社殿があるような感じであった。ここの駐車場はお寺の関係者が使っているのであろうか。

 稲荷神社のいわれを記したような案内板も特にない。本町という名のいわれもわからなかった。ただ、社殿の背後にはすぐ本門寺の木立が広がっている。この稲荷神社は、本門寺境内に祀られたお稲荷様というふうにも見えた。

 神社の前の道を西へ抜けると、本門寺の正面参道に出た。何度か訪れたことのある参道である。しかし、今日はまだ本門寺へは参らない。荏原の史跡めぐりとして本門寺を訪れる準備ができていないように思われる。

 古刹の大きな存在を背中に感じつつ、私は呑川を渡って帰途に就いた。これでこの日の八幡宮めぐりと稲荷めぐりは終わった。


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-29 22:14 | お稲荷様

西二稲荷神社

e0123189_21445581.jpg
 久が原近辺の八幡宮めぐりとして、西部八幡神社、東部八幡神社、道々橋八幡神社、子安八幡神社と回った。これで八幡宮めぐりは終わったが、近くに稲荷神社があるので寄ってみた。ここからはお稲荷様めぐりである。

 子安八幡神社から坂を上って下りて、住宅街の中にある小ぢんまりとした稲荷神社に着いた。八幡神社はいずれも坂の上にあったが、稲荷神社はこうして坂の下にある。

 地図上には「稲荷神社」とのみある社である。だが、奉納された鳥居の根元を見ると「西二稲荷」と小さく書かれていた。ここは大田区西馬込二丁目十八番地である。「西二稲荷」は通称なのかもしれない。

 境内には三基の庚申塔が並んでいた。左側の塔には元禄十五年(1702)、右側の塔には享保六年(1721)の年号が刻まれていた。中央は一段低い庚申塔であったが、年号は読み取れなかった。
e0123189_2145169.jpg

 小さな稲荷の境内に庚申塔があるというのは、私がお稲荷様めぐりとして最初に訪れた桜森稲荷神社と同じである。稲荷神社と庚申塔はどのような関係があるのだろうか。あるいは、近所にあった庚申塔が区画整理などで稲荷神社の境内に集められただけで、両者はあまり関係がないのかもしれない。稲荷神社と庚申塔については、これからもっと多くの稲荷神社を巡って、その関係を明らかにしていきたいと思う。

 いずれにせよ、庚申塔-稲荷神社-八幡神社-日蓮宗-庚申塔と、この辺りではいろいろな信仰が絡み合っている。


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-28 21:46 | お稲荷様

子安八幡神社

e0123189_15473835.jpg

 道々橋八幡神社に参った後、呑川の道々橋を渡り、北へと向かった。この辺りは小さな工場の多いところである。バス通りから路地に入ると、鬱蒼とした杜が見えてきた。ここが子安八幡神社である。道々橋八幡神社とは、呑川を挟んで対峙するような位置にある。

 木立は深く、曇り空の所為もあるが昼なお暗いという表現がぴったりの森閑さであった。急な崖面を石段で上って行く。呑川の谷に面したこの崖面は湿っぽく、汗でベタベタしていた体がジメジメとしてきた。

 それにしてもここの石段は急すぎる。崖のあちこちに「ここで遊んではいけません」という神社の注意書きが出ていたが、これは暗くて物騒だから遊んではいけないというのではなく、石段があまりに急で危険だから遊んではいけないのだと思い至った。
e0123189_15475453.jpg

 ここまでだいぶ歩いてきた私には少しきつい石段だったが、上り切ると空が明るくなって、正面に拝殿があった。参った後、由緒書きを探したが、ここにもそういったものはなかった。子安八幡神社という名称から、創建には子宝や子供の成育に関わるような願いが込められているように思った。

 恐る恐る石段を下り、崖の下に戻る。そして木立から抜けると、東側に林昌寺という日蓮宗の寺院がある。この八幡神社も、お寺とセットになっている。考えてみると、この日巡った八幡神社には、いずれも東側、つまり池上本門寺に近い方にお寺がある。かつて八幡神社は本門寺の配下にあったように思われる。

 境内に由緒書きはなかったが、後日東京都神社庁のホームページにこの子安八幡神社の由緒書きを見つけた。それによると当社は、康元元年(1256)に池上宗仲が鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とされている。そのときは池上山(現在の池上本門寺境内)に建てられたという。それが天正九年(1591)に遷座され、現在地に移ったそうだ。

 池上宗仲は鎌倉時代、池上に館を構えていた武士である。つまり、この八幡神社は、鎌倉武士が守護神として自身の本拠に八幡神を勧請し創建されたものだ。今までに訪れた八幡神社とはまた異なる種類の由緒を持つ社であった。


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-26 15:49 | 八幡宮めぐり

道々橋八幡神社

e0123189_15145561.jpg

 八幡宮めぐりは尚も続く。東部八幡神社から本光寺を経てライラック通りへ戻り北へ向かう。すると、信号のある交差点の角にまた庚申塔があった。庚申塔は辻に多いなと思う。

 この交差点から田園調布駅行きのバスが通る道へ入って行くと、次に訪れるべき八幡神社がある。道々橋八幡神社という。「道々橋」を何と読めば良いのかわからなかったが、近くに同名のバス停があり、ふりがなが振ってあった。これは「どどばし」と読むようだ。

 「どど」という響きが頭の中に繰り返されつつ境内へと進む。さほど広くない境内だが、公園が併設されている。ただ人影はなく、どんよりとした空の所為もあって陰湿な感じがした。
e0123189_15151446.jpg

 社殿にお参りした後、由緒書きの案内板がないか探したが見当たらなかった。どのような由緒がある八幡神社なのかわからず、困惑してしまった。

 疑問を残しつつ、バス通りから一本向こうの通りへ出ると、樹林寺という寺がある。言うまでもなく日蓮宗の寺院である。どうもこの辺りの八幡神社は、いずれも日蓮宗の寺とセットになっているようだ。そしてかつては、日蓮宗の寺が八幡神社の別当になっていたと考えられる。

 ひっそりとした樹林寺の境内に大田区教育委員会の案内板を見つけた。日蓮上人坐像に関する案内であった。この寺に、寛文十二年(1672)に造られた日蓮上人坐像があるという。これは像底に墨書銘があるためで、その署名から作者が碑文谷法華寺の日禅であったことがわかるという。

 碑文谷法華寺とは、現在の円融寺である。この寺はもともと日蓮宗不受不施派の寺であったが、江戸時代に幕府の弾圧を受け改宗されてしまっている。不受不施派がどういう宗派で、何故弾圧を受けたのか、まだ私は勉強不足だが、荏原の歴史として抑えなければならない重要なポイントであると思う。

 寺を出ると、すぐ目の前に橋があった。呑川に架かる道々橋である。小さな橋であった。八幡神社の名の由来になっているのであろうが、どういう意味なのだろうか。道と道が交差していたとか、そんなイメージしか浮かばなかった。私の頭の中に、再び「どど」という響きが繰り返された。

 後日、道々橋八幡神社の由緒について調べてみたが、よくわからなかった。はっきりしたのは、江戸時代ここに道々橋村という名の村があり、八幡神社がその村の鎮守になっていたということである。


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-24 15:16 | 八幡宮めぐり

久が原東部八幡神社

e0123189_14182735.jpg

e0123189_14184924.jpg

 久が原東部八幡神社は、西部八幡神社と同様、崖の上にあった。境内の案内板によれば、久が原台地の一番の高所に建てられているという。住宅地の中にあるが、小学校が隣接しているので、西部八幡神社よりは少し賑やかであった。また、こちらの方が木立は少なく、明るい感じがした。

 社殿は古く、文久二年(1862)の建築とされている。かつては茅葺きだったそうだが、今は銅で覆われている。それでも風格のある社殿だ。

 この東部八幡神社が、西部八幡神社を分祀した本家ということになるので、創建は天平神護元年(765)とされる。宇佐八幡宮より分霊を勧請したとあるが、久が原の地は宇佐八幡宮と何か関係があったのだろうか。この八幡神社は、由緒書きに源氏や武家が出てこないパターンである。

 境内の隅に小さな社があった。これも稲荷神社だと思った。狐様はいなかったが紅い鳥居が並び、紅い社殿がある。何だかどこに行ってもお稲荷様に見られているような気がしてきた。
e0123189_14191263.jpg

 境内を出て坂を下って行くと、本光寺というお寺がある。これも日蓮宗の寺院であった。寺の近くの交差点に、庚申塔を見つけた。この庚申塔の青面金剛は帝釈天として祀られている。日蓮宗では青面金剛を帝釈天の使者として勧請するという。この地では庚申塔にも日蓮宗の影響が強い。

e0123189_141933100.jpg

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-23 14:20 | 八幡宮めぐり

久が原西部八幡神社

e0123189_15453957.jpg

e0123189_15462169.jpg

e0123189_15463872.jpg

 お稲荷様めぐりに熱くなってきたが、八幡宮めぐりも忘れてはいない。こちらも興味のあるテーマだ。

 荏原の八幡宮を探したとき、ある地域に八幡宮が密集していることに気付いた。大田区の久が原近辺である。この辺りには五つもの八幡宮を見つけた。それでいくつかをまとめて訪れてみることにした。

 東急池上線の久が原駅で下車し、最初に訪れたのは西部八幡神社である。駅前から続くライラック通りから、少し住宅街の中へ入ったところにあった。境内は崖面の上で、道が下り始めようかというところに位置している。

 この西部八幡神社に近接して、東部八幡神社もある。正しく言うと、久が原西部八幡神社と久が原東部八幡神社である。名前から察するに、両社は関係があるのだろうと思っていたが、もとは一つであったようだ。

 江戸時代、久が原の地は西側の六郷領と東側の馬込領に分断されてしまった。それで馬込領にあった八幡神社(現在の東部八幡神社)を分祀し、西部八幡神社が創建されたという。そしてそれぞれが鎮守として信仰され、現在に至っている。

 木々の生い茂る西部八幡神社の境内に入って行くと、朱塗りの社殿が現れた。梅雨空の曇天の下で、それは戸惑うくらいに朱かった。お参りしようとすると、賽銭箱のだいぶ手前に柵がしてあった。賽銭を投げ込むには少し距離がある。どうしようかと思って良く見てみると、柵の一部が押せるようになっていた。恐る恐る押し開けて中へ進み、お参りを済ませた。

 社殿の向かって右側に「社殿御造営紀念」という石碑があった。近寄って見てみるとまず由緒書きがあり、天平神護元年(765)に宇佐八幡宮を勧請した旨が書かれていた。ずいぶん古い謂われがあるたものだと感心した。

 石碑によれば、現在の社殿は約三十年前の昭和五十三年(1978)に完成したそうだ。社殿としては新しいものと言える。それ以前の社殿は約二百年前の文化七年(1810)の造営であったという。老朽化したので建て替えたと書いてある。以前の社殿を見てみたかったものだと思う。

 ふと現在の社殿に目を遣りなおすと、右手奥に小さな社が見えた。稲荷神社であった。ちょうど塗り直しをしているのか、狐様がビニールに包まれていた。その前で一人の作業員が黙々と働いていた。八幡宮の中に稲荷神社があるのは珍しくないことだと思う。

 境内を出ると、崖の下に当たる位置に安詳寺というお寺があった。池上本門寺が近いだけに、この寺は日蓮宗であった。


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-21 15:49 | 八幡宮めぐり

十日森稲荷神社

 先日、近所の桜森稲荷神社を訪れ、稲荷神社についても探っていこうと思い立って以来、私は荏原の稲荷神社を片っ端から探し始めた。まるで狐に取り憑かれたかのように、地図上を睨んで「稲荷神社」の文字を求め続けた。インターネットの検索も駆使して、荏原の中におよそ八十の稲荷神社を見出した。これで私の中の狐は満足したらしい。荏原稲荷神社リストができあがった。

 ただ、これでも荏原の稲荷神社のごく一部に過ぎないだろう。私が探した稲荷神社は地図上に載っているものであり、また「○○稲荷神社」と何らかの呼称のついた社を中心に拾っているからである。それ以外に、地図に載らない小さな社や、民家の中に建つものもあるだろうから、実際の荏原の稲荷神社の数は、この何倍にもなるかもしれない。 

 先述のように、稲荷神社の数は非常に多い。数が多いということは、それだけ稲荷信仰が普及しているということである。そしてその信仰を積極的に流布・宣伝した活動があったということになる。稲荷神社の頂点に立つのは、京都にある伏見稲荷神社だ。この伏見稲荷を中心に稲荷信仰の宣伝活動が行われた歴史がある。

 また、信仰を受け入れる民俗的な基盤もあったとされる。お稲荷様といえば狐だが、古来狐は「田の神」もしくはその使者として信仰されていた。その狐の信仰がお稲荷様と結び付いたようだ。そういう意味では、お稲荷様は農業の神様と言えるが、実際には農業以外にも、漁業・商業神、託宣神・憑物・福神など、いろいろな形で信仰されている。

 こうなると稲荷信仰の在り方を知るのは難しいことだが、ともかくもお稲荷様めぐりもやって行こうと思う。

 さて稲荷めぐりとして最初に訪れたのは、目黒区中央町にある十日森稲荷神社である。かかりつけの病院から遠くないところにあるので、病院帰りに寄ってみた。
e0123189_12284336.jpg

e0123189_12285716.jpg

 駒沢通りに面した社は広くなかったが、木々がこんもりと茂っていて風格はあった。案内板によると、この社は旧上目黒村五本木組の鎮守で、もともとは五本木の旧家の屋敷神を移したものであるという。現在でも民家の庭先に見られるような小さい社が、独立発展したものといえるのではないだろうか。屋敷神というのが稲荷めぐりのキーワードになりそうな気がしてきた。

 十日森という名の由来については、「稲荷(とうか)森」から来ているという伝説があるそうだ。なるほど、稲荷は「とうか」と読める。でも、稲荷の森ということは、かつてはもっと社が大きく森のようになっていたのだろうか。

 狐の出迎えを受け拝殿に参る。お参りを済ませ、写真を撮ったりしていると、短い間に一人、二人と近所のおばさんがお参りに来ていた。地元の信仰が篤いんだなあと感心した。

 こうして荏原の「稲荷めぐり」は始まった。しかし、八十もの稲荷神社をリストアップしてしまった。いくら近辺とはいえ、全部回ることができるのだろうか。大変なことになってきたと思う。でも、それ以上にワクワクして楽しくなってくる。ただ、お参りをした後、狐に笑われていたような気もした。

e0123189_12291492.jpg


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-20 12:32 | お稲荷様

多摩川浅間神社

e0123189_12251884.jpg

e0123189_1225426.jpg

 東急東横線が多摩川を渡る直前の左手に社が見える。多摩川浅間神社である。以前は右手の多摩川台公園と橋でつながっていたような記憶があるが、線路の複々線化によって今は分断されている。

 電車の窓から見るたび気になる社だったので、多摩川駅で下車して行ってみた。駅前の通りが河川敷へ出る手前の右手にこんもりとした木立がある。その中を急な石段で上って行くと拝殿がある。

 参道の左手に広場がある。展望台だ。多摩川が見渡せた。しばらく見とれてから拝殿へ参る。拝殿の脇に社のパンフレットがあった。こういうものがあるとひじょうに嬉しい。頂戴し、もう一度展望台へ戻ってから嬉々としてパンフレットを読み始めた。

 それによると、創建は鎌倉時代だという。中世に興味を持つ私としては、その一文で色めき立った。

 伝えられるところによると、文治年間(1185年~1190年)に源頼朝が武蔵国滝野川松崎へ出陣した折、その身を案じた妻・北条政子が後を追ってきたという。だが、足の傷が痛み出したためこの多摩川畔で休むことになった。そのとき、富士山が鮮やかに見えたそうだ。

 富士山が信仰の対象である浅間神社を自身の本尊としている北条政子は、そこで手を合わせ夫の武運長久を祈り、身に付けていた「正観世音像」をこの地に建てたという。この像を村人たちが「富士浅間大菩薩」と呼び、永く尊崇するところとなった。それが多摩川浅間神社のおこりとされている。

 浅間信仰は荏原でも広く見られるものだろう。かつて荏原からは富士山がよく見えたに違いない。各地に富士見坂や富士塚がある。これも信仰の一つの形として、庚申信仰や稲荷信仰と同様に学んでいかなければならないと思う。

 私が訪れた日は梅雨空で、多摩川の流れを包む空は真っ白であった。現代の荏原はすっかり建て込んで、富士山の見えるところもわずかだが、この展望台からは、晴れていれば富士山が望めるはずだ。冬の晴れた日に東横線に乗ったとき、鉄橋の上の車窓に山容を見出したことがある。私は冬晴れの日にまたこの浅間神社を訪れたいと思った。

e0123189_12255749.jpg

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-19 12:28 | 富士信仰

五本木庚申塔群

e0123189_1146766.jpg

 目黒区の五本木は「昔、五本の木があったから五本木」という単純な成り立ちの地名である。ただ、地名としては六本木の方が有名なので、五本木だと何となく足りない気がする。

 五本木にある庚申塔群を訪れた。目黒区守屋教育会館の裏手にある。守屋教育会館は、小学校の頃からよく訪れた施設だ。ここには区の郷土資料室もある。すでに何度も行ったことがあるが、荏原の史跡を巡る旅に際して、改めて見に行かなければならないところではある。

 それはまた今度にして、今日は庚申塔だ。ここには地蔵菩薩像一体と庚申塔四基が並んでいる。案内板によれば、貞享三年(1686)から文化七年(1810)にかけての年号が刻まれているという。どれも状態が良くて、しっかりと残っている。

 庚申塔建立のもととなる庚申信仰では、干支の庚申にあたる日の夜を寝ずに過ごし、長寿・息災を祈る庚申待が執り行われる。この日の夜は人間の体内にいる三戸の虫が体を抜け出し、天帝にその人の悪事を報告するという。その報告により短命になってしまうので、庚申の夜は寝てはいけないとされている。中国から伝えられた信仰だそうだ。

 庚申待の行事は集団で行われた。その集団が庚申講と呼ばれるものである。そして、六十日に一度の庚申待を足かけ三年、連続して十八回行うと、供養のために塔を建てるようになった。それが今に残る庚申塔である。建立された年代から、この辺りでは江戸時代に盛んに庚申待を行っていたことが窺われる。

 庚申待はどのような行事であったのだろうか。皆が夜通しで集まるから、酒食が振る舞われたのだろうか。この辺りの名産の筍が持ち寄られたりしたのだろうか。身近な庚申塔をもっと調べて、荏原の信仰の在り方を知りたいと、改めて思った。


にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-18 11:47 | 庚申塔

桜森稲荷神社

e0123189_13491983.jpg

 身近なところに、意外な史跡が隠れていることがある。

 自宅から最寄りである都立大学駅の少し先に、桜森稲荷神社という、小さな社を見つけた。家からまっすぐ自転車で行けば、五分余りで着くだろう。見つけたときは、史跡巡りのときではなかったので、その後改めてこの社を訪れてみた。

 小さな案内板には「この辺りの氏神様」だと書かれていた。また、一帯に桜が多かったのでこの名があるとしている。近くには呑川緑道の桜並木があるが、きっと昔はそれ以外にも桜の木がたくさんあったのだろう。桜の森とはいい表現だ。

 稲荷神社は農業の神様であると案内板には書いてある。そして二月の初午は今も盛況だと記している。初午はお稲荷様の縁日だ。こういう案内板の「今」が本当に今なのかはわからないが、もし現在も行われいるのだとしたら、ぜひ初午のときに来てみたいと思う。屋台や露店が出たりするのだろうか。

 ところで、稲荷神社は一説によると八幡宮よりも数が多いという。荏原の史跡を巡る旅においても、お稲荷様は看過できない。ただ、お稲荷様は一般の家の庭にあったりもする。だから、八幡宮めぐりのように全てを巡ろうというわけにはいかない。それでも、荏原の歴史を形成するにおいて、お稲荷様がどのような関わりを持ってきたのか、その辺りは探っていきたいと思う。

 桜森稲荷神社の小ぢんまりした境内には、二体の石仏があった。一見すると庚申塔のようであった。私はすぐに太陽と月が刻まれていないか探した。それが庚申塔の特徴だからである。一体には両方がすぐ見つかった。もう一体にはうっすら金色に染まった太陽しか見つからなかったが、磨耗した部分に月も彫られていたのだろう。両方とも庚申塔に違いないと確信した。私もだいぶ庚申塔に見慣れてきたなと一人で得意になった。
e0123189_13493817.jpg

e0123189_13495733.jpg

 一方の庚申塔には文化七年(1810)の銘が、もう一方の庚申塔には享保十五年(1730)の銘が読み取れた。これも自分で読み取れたので、ちょっと気分が良かった。それにしても、享保といえば三百年近く昔だ。私は身近な場所に深い歴史を感じた。

 こうしてみると、荏原に庚申塔は多い。先に見た鉄飛坂の庚申塔群はこのすぐ近くである。きっとこうして今も残るものはわずかだろうから、江戸時代にはもっとあちこちにあったと思う。庚申信仰の根深さについても、もっと考えていかなければならない。


にほんブログ村 歴史ブログへ

[PR]
by ebara_explorer | 2007-07-14 13:56 | お稲荷様