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旗岡八幡神社

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 八幡宮めぐりの旅を続けたい。次に訪れたのは、大田区旗の台にある旗岡八幡神社である。

 旗岡八幡神社の最寄り駅は、東急大井町線の荏原町駅である。荏原を旅している私には気になる駅名だ。この辺りには他にも、荏原中延駅があり、また「荏原」を冠する公共施設も多い。荏原という地名の由来については、いずれしっかりと学ばなければならない。

 さて、旗岡八幡神社は鬱蒼とした木々に包まれていた。お参りをした後、境内を入ってすぐのところにあった由緒書きに目を通す。

 旗岡八幡神社の発祥は長元三年(1030)とされている。平忠常の乱を平定すべく、下総に向かった源頼信がこの地に宿営した際、霊威を感じて戦勝祈願のために八幡神を奉ったのが始まりだそうだ。その際、高台に布陣し、源氏の白旗を立てて大いに武威を誇ったことから「旗岡」あるいは「旗の台」の地名が起こったのだという。

 旗の台の地名の起こりに源頼信が関わっていたとは知らなかった。東急線の駅名としても、何気なく使っていた「旗の台」である。この由来にはかなり驚いた。

 鎌倉時代になると、荏原義宗なる人物が当地の領主になり、この八幡神社の発展に寄与したという。やはり「荏原」の地名はこの辺りに起因するのだろうか。

 由緒書きは最後に「当神社は創建以来千年近い歴史を歩んでまいりましたが、時移り時代が変っても常に氏子崇敬者の心の拠り所として親しまれ敬われ今日に至っております」と結んでいる。

 この周辺は商店街が多く、地域に活気があるように思う。そういう意味では、地域の氏神として、今も信仰が厚いのかもしれない。私が訪れたのはちょうど六月末で、鳥居には大祓の茅の輪くぐりが設けられていた。きっと地域の人が大勢くぐりに来るのだろうと思った。

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by ebara_explorer | 2007-07-10 22:48 | 八幡宮めぐり

世田谷八幡神社

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 荏原の史跡巡り上、南東の巨大な存在である池上本門寺に対して、北西には吉良氏という大きな存在がある。荏原の戦国大名である。池上本門寺が大田区の史跡巡りの中心になるのに対して、吉良氏は世田谷区の史跡巡りの中心になるといってよい。

 その吉良氏の影に怯えつつ、私はまだ世田谷の史跡巡りに足を踏み出していなかった。しかし、いつまでも世田谷を放っていくわけにはいかない。

 そこで吉良氏はひとまず置いておき、とりあえず世田谷の八幡宮めぐりに出てみた。最初に訪れるのは、以前に一度行ったことのある世田谷八幡神社である。

 弦巻にある世田谷区の中央図書館に寄った後、歩いて世田谷八幡神社へと向かった。バス通りを北へ進むと、大きな交差点に出た。世田谷通りの少し手前である。信号待ちになったので立ち止まると、横断歩道手前の案内板に載っていた地図が目に付いた。

 地図には、目の前を左右に通じる道のところに「大山道」と書かれていた。江戸と伊勢原の大山を結ぶ古道だ。この古道も調べなきゃなあと思って地図上で追っていくと、すぐ先の道沿いに「八幡神社」の名が見えた。この八幡神社はノーマークであった。しまった、また八幡宮めぐりの行き先が増えてしまった、と思う。しかし「八幡神社」とあるだけで、名前がない。どんな神社なのだろうか。気にはなるが、今回の目的地は世田谷八幡宮である。信号が変わったので、そちらへと急ぐ。こちらの「八幡神社」はまた今度だ。

 吉良氏の史跡を横目にしながら、世田谷八幡神社へ向かう。社は東急世田谷線宮の坂駅のすぐ近くにある。前回は桜の咲く時期に来たが、今回は新緑の色濃くなった六月中旬である。

 鬱蒼とした境内に入って由緒書きを読む。創建には「八幡太郎」こと源義家が関わっているとのことであった。義家は後三年の役の帰途、この世田谷の里で豪雨に遭い、十日間も足止めをくらったという。その間に源義家は、後三年の役の勝利が八幡大神の加護によるものであったとして、宇佐八幡宮の分霊を招き盛大な祭りを執り行ったそうだ。また、里の人々にも八幡神を鎮守として信仰するよう教えたと伝えられている。これが世田谷八幡神社の起源とされている。

 このように、八幡宮の創建に源義家が関わっているという例は、あちこちに残っているように思う。全国に「空海が建立した寺」というのも実に多いが、源義家もどれだけ八幡宮を創建したのかと思う。各社の言い伝えを全て集めてつなげてみたら、後三年の役における行き帰りの道順はどうなるだろうか。

 それはさておき、由緒書きを読み進めていくと、やはり吉良氏が登場した。当社に残る棟札によると、天文十五年(1546)に世田谷城主であった吉良頼貞、頼康が社殿の修繕を行っている。また、ここは吉良氏の祈願所ともなっており、当時の神職は吉良氏家臣の大場氏が務めていたという。

 しかし吉良氏は、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで、北条氏とともに滅んでしまっている。その後は江戸に入府した徳川家康が庇護を加え、今日に至っているという経緯である。

 やはり吉良氏が登場してしまった。世田谷の歴史を紐解くのに、吉良氏は避けて通れない存在だ。吉良氏のことを学んでから、またここへ来ないといけないかもしれない。

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by ebara_explorer | 2007-07-08 23:47 | 八幡宮めぐり

中原街道石橋

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 雪ヶ谷八幡神社を見学した後、東急池上線の石川台駅前を通り過ぎ、中原街道沿いに出た。街道沿いを少し西へ向かえば呑川とぶつかる。あとは川沿いにさかのぼれば、地元に戻れる。ただ、この日はすでに、暑い中をけっこう歩いていた。午前中は池上から馬込、午後は電車で大岡山に移動した後、洗足池から千束八幡神社、雪ヶ谷八幡神社と回ってきた。さすがに少し疲れも出てきた。また、見学も充実したもので、もはやこれで史跡巡りは一旦打ち止めだと思っていた。

 ところが、呑川の手前の横断歩道で中原街道を渡ると、交差点の脇に史跡の案内板らしきものが見えてきた。おやっと思って良く見ると、近くに石碑のようなものがある。間違えなく史跡だ。

 史跡巡りには二つの楽しみがある。一つは、事前に予習してきた史跡を見学することである。予備知識があることで、見学は深いものになる。やっぱりそうだったか、とか、こんなこともあるのか、と得られるものは大きく、楽しくなってくる。 

 もう一つは、事前に予習していなかったものに偶然出会うことである。こんなところにこんなものがあったのか、という驚きとともに喜びも得られる。また、それが自分の予習してきたものと密接に関わっていたりして、見学の中身がさらに濃くなるという効果も出てくる。

 この日はその二番目の楽しみを、すでに味わっていた。洗足池を出たところで出会った九品仏みちの道標である。この道標を見つけたことで、大きな喜びを得ていた。それ以外にも予定していた史跡をしっかりと見学してきたし、もう飽和状態になっていた。

 そこに来て、またこの予期せぬ史跡の登場である。もう頭はいっぱいだ。案内板と石碑が目に入ったとき、私は思わず苦笑いしてしまった。まだ出てくるのか、という思いであった。

 しかし、見逃すことはできないと思ってしまう。また来ればよいのに、近いからいつでも来られるのに、ついつい寄って行って見てしまう。

 案内板によると、この石碑は「石橋供養塔」というそうだ。江戸時代の安永三年(1774)に、雪ヶ谷村の浄心らが石橋の安泰を祈って建てたという。石橋とは呑川を渡る中原街道に架かっていた橋のことだ。今、呑川に架かっているのはコンクリートの橋である。

 供養塔の正面には「南無妙法蓮華経」と刻まれている。また日蓮宗の題目だ。側面には円長寺の住職日善の署名と花押があるという。円長寺とは、先の雪ヶ谷八幡神社のところで出てきた、この近くにある日蓮宗寺院である。荏原の歴史を旅する私に、日蓮宗は「これでもか」というくらい付きまとってくる。

 この石橋供養塔は、石橋の無事と通行人の交通安全だけを祈念したという意味で貴重なものだという。でも私にしてみれば、今ここで出てきてほしくなかったなあという史跡であった。

 溢れんばかりの史跡巡りの成果を背負いながら、私はとぼとぼと呑川沿いの帰途に就いた。

写真:石橋供養塔(右側)と、現在の呑川に架かる石川橋(左奥)


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by ebara_explorer | 2007-07-06 22:18 | 石造物

雪ヶ谷八幡神社

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 千束八幡神社に程近い雪ヶ谷八幡神社は、大岡山方面から伸びてきた台地の崖下に位置している。東急池上線石川台駅前の小さな商店街にスッポリと納まっている小さな社だ。

 境内の「社誌」を読んでみる。すると意外にも新しい社であることがわかった。新しいといっても、八幡社としては、ということであり、創建は戦国時代である。

 永禄年中というから西暦1558年から1570年の間のことであるが、当時この地を支配していた戦国大名北条氏康の家臣太田新六郎という者が、巡回の途中に当地で法華曼荼羅の古碑を発掘したという。その「奇瑞」により八幡大菩薩を祀ったそうだ。八幡神社の創建に戦国武将が関わっているというのは、新しいパターンである。千束八幡神社を訪れた後に、ついでのような形で訪れた雪ヶ谷八幡神社であったが、同じ八幡神社でも全く性質の異なるものであった。

 ところで、発掘された「法華曼荼羅」というのは、日蓮宗の曼荼羅ではないだろうか。法華曼荼羅とは法華経の世界を表したもので、法華経は日蓮宗で最重要視される経典である。荏原では、八幡社に触れても日蓮宗が登場してくる。

 それにしても、法華曼荼羅と八幡大菩薩はどのような関わりがあるのだろうか。戦国武将が創建したから、単に武神を祀ったというだけなのだろうか。

 当社は江戸時代になると、近隣に創建された円長寺・長慶寺が隔年で別当に就いたという。両寺はもともと、碑文谷法華寺の末寺とされる。

 碑文谷法華寺とは、現在の円融寺のことだ。円融寺は今でこそ天台宗であるが、以前は日蓮宗の寺院であった。しかし、日蓮宗の中でも禁制となった不受不施派に属したため、江戸幕府により天台宗に改宗させられてしまった。このため、末寺であった円長寺・長慶寺は池上本門寺の末寺へ編入されることとなった。

 ということはやはり、この雪ヶ谷八幡神社は日蓮宗と深く結び付いているということである。そういえば、碑文谷法華寺(現・円融寺)の近くにも、碑文谷八幡神社という八幡社がある。八幡社と日蓮宗寺院の関係というものも、これからは考えていく必要があると思う。

 明治時代になると、神仏分離令により円長寺・長慶寺と当社の関係はなくなる。今、雪ヶ谷八幡神社は小ぢんまりとしていて、村の鎮守といった風情である。私が訪れた六月半ばには、大祓の案内書きが境内にひっそりと出ていた。


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by ebara_explorer | 2007-07-06 22:04 | 八幡宮めぐり