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蒲田八幡神社

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 八幡めぐりの旅先はいきなり飛んで、今度は大田区蒲田である。京急蒲田駅近くの商店街に、蒲田八幡神社がある。アーケードから一本道を隔てたところに、ちょっと窮屈そうな杜があった。それでも参道はわりと広々していた。

 お参りをしてから由緒書きを探すと、入口近くに見つかった。また鎮座四百年の記念碑もあり、これにも社の由緒が書かれていた。

 それらによると、この地には、古代の斎祀の遺跡があったと伝えられているという。そして近世初頭の慶長年間(1596年~1615年)に、北蒲田村と新宿村が分村するにあたり、稗田神社の「春日の像」をここへ分祀し、新宿村の鎮守として新宿八幡神社となったそうだ。稗田神社というのはどこにあるのかと思って後で調べてみると、現在の蒲田三丁目にあった。蒲田駅の北側で、文字通り「北蒲田」にあたる。尚、この社が蒲田八幡神社と名乗るようになったのは昭和二十四年(1949)のことだという。

 このように見てくると、八幡神社としての歴史は古くないようだ。記念碑には源頼義・義家が近くの六郷の渡しを通ったことも書かれていたが、特にこの地に彼らの伝承はないようである。

 境内を一旦出ると、寺が隣接していることに気付いた。これは今までの大田区の八幡神社と同様、別当寺になっていた日蓮宗の寺院ではないだろうか。そう思って寺の正面に回ってみると、やはり日蓮宗のお寺であった。寺の名を妙安寺という。 先に見た神社の由緒書きによれば、分祀した「春日の像」が明治の神仏分離によって妙安寺に移されたとあったから、この寺と蒲田八幡神社が関わりを持っていたことは窺える。やはり、妙安寺は蒲田八幡神社の別当だったのではないだろうか。

 神社の境内に戻ると、参道脇に狐様がいらっしゃるのに気付いた。稲荷神社だ。小さな祠の両側にいる狐様は、檻のようなカバーをかけられていた。いたずら防止のためなのだろうが、何だかかわいそうだった。
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 そんな狐様を眺めてから、私は晩夏の涼やかな境内を抜け、アスファルトの熱い蒲田駅前へと向かった。




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by ebara_explorer | 2007-08-31 23:36 | 八幡宮めぐり

宇佐神社

 丸子川沿いの旅を続ける。今度は東急大井町線の尾山台駅から歩いた。駅前から線路沿いを九品仏駅方面へしばらく行き、それから南へ下る。道はやがて環状8号線にぶつかる。アスファルトに塗り固められた広い路面が強い日差しを照り返していて、ムワンとしてくる。尾山台は荏原の中でも標高が高いところで、45メートルくらいあるという。

 環状8号線を越えると、道は下りになる。この坂を「寮の坂」という。坂のてっぺんに道標があった。道が二股になっており「左 籠谷戸 右 多摩川」とある。左の「籠谷戸」とは、先日訪れた田園調布八幡神社のある辺りだ。ここに来て、前回の旅とつながってきた。この辺りは田園調布八幡神社よりも丸子川沿いを少し上流へ遡ったところにある。

 道標の裏に「寮の坂」の案内板があった。坂の名は、もともと坂の上の台地上にあった伝乗寺に、学寮があったことに由来するという。学寮のあったということはかなり大きな寺であったと考えられる。現在、この伝乗寺は坂の下にある。伝乗寺からは正和五年(1316)銘の板碑が出土していることから、その歴史は古いという。
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 案内板には籠谷戸に関する記述もあった。それによると、室町時代に奥沢城主であった大平出羽守が、多摩川上流から運ばれた武器・兵糧を、籠谷戸からこの寮の坂上あたりに陸揚げし城へ運び入れていたと伝えられているという。奥沢城は現在の九品仏浄真寺の辺りにあったはずだ。中世における籠谷戸の重要性をさらに知った。

 また江戸時代には、伝乗寺が川崎泉沢寺と九品仏浄真寺の中間軍事拠点となっていたという。江戸時代に軍事拠点とは物々しい言い方だが、交通の要衝であったことは知られる。

 ここから急坂を下って行くと、坂下の家並の向こうに多摩川の向こう岸が望まれる。川崎市である。そして坂の途中の右手には神社がある。ここが今回の目的地である。

 社の名を宇佐神社という。宇佐といえば、八幡宮のおおもとである宇佐八幡宮が想起される。だから私はこの社を地図で見つけたとき、八幡神社に違いないと考えた。実際、すぐ近くには「はちまん橋」というバス停があるし、境内には「八幡塚古墳」なる史跡もある。だから「○○八幡神社」という名ではないけれども、私はこの神社を八幡宮めぐりのリストに入れていた。
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 木立を背負った社殿は南向きで、南側は眺望が開けていた。夏空が境内の上に広がっている。社殿と向き合うようにして、由緒書きの碑があった。見上げると眩しく読みづらかったが、何とか読み取れた。

 由緒書きによると、この神社の創建は源頼義であるという。源頼義が前九年の役で奥州へ向かう際にこの地を通ったとき、空に八つの雲がたなびき、それが源氏の白旗のようであったという。これに感嘆した頼義は、合戦の後この地に八幡神を祀ると誓い、前九年の役の後にこの社を創建したという。

 田園調布八幡神社の由緒に、籠谷戸付近に鎌倉との往還のあったことが書かれていたが、この宇佐神社の由緒からは、平安時代にも西国と奥州を結ぶ往還のあったことが窺える。だんだん荏原の中世が立体的になってくる想いであった。
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 境内のすぐ南には、伝乗寺本堂の大きな屋根が見えていた。宇佐神社を後にして伝乗寺へ行ってみた。
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 寺域は広くなかったが、本堂の前には小ぶりながらも五重塔があったし、南に回れば仁王門もあった。寺は浄土宗であった。「寮の坂」の案内に、九品仏浄真寺との中継拠点になっていたとあったから、九品仏浄真寺と同じ浄土宗ではないかと思っていたが、やはりそうであった。
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 寺からもう少し南側へ行けば丸子川に行き着くが、暑いので今回はこれで帰ることにした。アブラゼミの鳴く境内を出て、元来た道を戻る。坂を上りながら私は、今度は籠谷戸をもう少し歩いてみたいなと思った。



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by ebara_explorer | 2007-08-29 22:42 | 八幡宮めぐり

品川歴史館

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 以前から行きたいと思っていた品川歴史館を訪れた。ここは品川区の郷土資料館である。荏原にある郷土資料館の中では一番充実しているところであると言える。場所は大井町駅と大森駅の中間地点くらいにあり、私は大井町駅から暑い中を歩いて行った。

 建物は新しく、館内の展示もきれいであった。冷房が良く効いていて、誰もいない展示室でその冷気を独占しながら歴史に触れられるのは、気分が良かった。

 品川の歴史というと、やはり東海道品川宿がメインである。一階の常設展示室では、その品川宿の模型が展示の中心となっており、それを取り囲むようにして編年の展示が並んでいた。

 私が注目したのは品川宿ではなく、自分が興味を持っている中世の展示である。中世の品川は、関東でも有数の港町として繁栄していたということである。その様子は、明徳三年(1392)の『湊船帳』で窺い知ることができる。中世の品川に船の出入りがかなりあったことがわかる。この文書の複製が展示されていた。

 また、現在は閑静な住宅地として知られる御殿山は中世、船が航行する際の目印となる「当て山」であると同時に、霊場でもあったと説明されていた。御殿山からは、14世紀から15世紀にかけての板碑、五輪塔、宝篋印塔、人骨などが見つかっているという。それらは法禅寺というところに祀られているそうだ。中世の霊場は都市の周縁部にあったとされるが、御殿山も中世港町品川の周縁部に当たるのだろう。

 中世の展示で他に目を引いたのが「円融寺金剛力士像胎内納入木札」だ。目黒の碑文谷にある円融寺の金剛力士像から見つかった札である。永禄二年(1559)の銘があるという。そこには「武州荏原大井之内碑文谷村」と書かれている。大井とは、ちょうどこの大井町のある辺りを指すのだろう。内陸の碑文谷村が「大井之内」とされていたのは興味深い。解説によれば、当時の大井は立会川沿いに発展していたためその水源地に当たる碑文谷が大井に属していたのだという。川による地域のつながりを知ることができた。

 江戸時代の展示はどうしても宿場のことが中心だが、私はそれ以外に注目した。品川宿というと、江戸の町の中に入っているようで、荏原という立場から歴史を見ている私には扱いづらい。品川宿にはまると、そのまま江戸の町に引きずりこまれそうな気がする。

 それでまず見たのが漁業についてである。品川には江戸時代、江戸城御用の鮮魚を納める八ヶ浦のうち、品川浦と大井御林浦の二つがあったという。品川と漁業といっても今ではピンと来ない。海苔の生産もあったそうだ。それから農業では、寛文九年(1669)に品川用水の開かれたことが大きな画期となり、タケノコ、長ネギ、ニンジンといった特産物が生まれたという。こういう側面を知ることが、荏原をめぐるときには役立つように思う。

 江戸時代の信仰についての展示もあった。信仰は最近私が特に注目しているものなので目を引いた。それによると品川では、内陸においては庚申講が最も行きわたった信仰であり、沿岸においては富士講、大山講など、山にある神社に参詣する山岳信仰が盛んであったという。この違いを知っておくことは、これから荏原をめぐる際に重要なポイントとなるだろう。

 こうやって展示を見ることで、私はかなり刺激された。いろいろと行きたいところも出てきた。これからの史跡めぐりがさらに面白くなってきそうだ。



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by ebara_explorer | 2007-08-25 23:33 | その他

田園調布八幡神社

 田園調布の西守稲荷神社を訪れた後、私は丸子橋のたもとに出た。田園調布にはまだ別のお稲荷様がいらっしゃるので、それを巡ろうかとも思っていたが、今回は違う目的がある。目指すは田園調布の八幡神社である。

 先日、二子玉川の周辺を訪れたが、そのときは丸子川という川沿いに歩いた。この丸子川の下流が丸子橋付近に当たる。ちょうどこの辺りで丸子川は多摩川に合流している。先日来、丸子川が何となく気になっていたので、今回は丸子川散策の第二弾とした。この丸子川沿いに八幡神社がある。

 丸子川は、仙川から分かれた流れと、世田谷区の祖師谷辺りから来た流れが合流して、この前訪れた岡本付近からずっと、多摩川の北岸をたどっている。今では小さな流れだ。ただ、きっと昔は灌漑など生活に欠かせない水源だったと思う。そしてこのような小さな川がいくつも流れているのが荏原の特徴であり、その流れによって起伏の激しい荏原の地形も成り立っている。史跡めぐりも川が流れるように連なっていけば良いが、今はまだ点を打つようにあちこち訪れていくしかない。その点がやがて線になって流れ出し、そして面になって、私の中の荏原が築かれていくものだと思っている。


 さて、丸子川を遡ることにする。川の流れは多摩川河川敷沿いの多摩堤通りと、多摩川台公園の間を細く流れて行く。車通りの多い多摩堤通り沿いを歩くのは嫌なので、多摩川台公園に入った。実は、この公園にも史跡がある。それは古墳群である。多摩川台古墳群と呼ばれるものだ。

 古墳は、歴史というよりは考古学といえる。そして私は考古学があまり好きではない。だからこの古墳を荏原の歴史物語に入れるべきかどうか、今は悩んでいるところだ。今回のところは、古墳時代の昔からこの辺りに人々の痕跡があるんだなという認識を新たにするくらいにしておこうと思う。

 鬱蒼とした木立の中、古墳群に付き合って上ったり下ったりしているうち、すっかり汗だくになってしまった。ようやくに公園の木々を抜け、丸子川沿いに出る。この辺りは川の南岸だけに道があり、北岸はすぐに住宅の敷地である。だから各家の門ごとに橋が架かっている。自家用の橋というわけである。

 そんな川沿いを歩いて行くと、やがて寺が見えてきた。照善寺という。目指す八幡神社は程近い。この寺が日蓮宗で、八幡神社の別当になっていたというパターンかと思ったが、照善寺は浄土宗であった。別当寺だったのかどうかはわからない。特に由緒書きはなかった。
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 寺専用の橋を渡ってお参りをして、また橋を渡って戻ろうとすると、正面の壁にへばり付くようにして青面金剛が見えた。庚申塔だ。この場所に古くから往還のあったことが知れる。

 そしてさらに川沿いを遡って行くと、にわかに北岸の崖が急になる。ちょっと薄暗くなってきた。そこに田園調布八幡神社がある。
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 橋を渡り急な石段を上って行くと、小さな社殿がある。思っていたより小さな社であった。社殿の右奥にはお稲荷様の祠があって、紅い幟が派手に揺れていた。八幡神社の社殿にあまり飾り気がないので、そちらの方に目が行ってしまう。八幡神社にお参りに来たのか、稲荷神社にお参りに来たのか、よくわからなくなった。
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 境内に由緒書きは見当たらず、特にどうすることもできなかった。仕方なしに石段をとぼとぼと下りる。最初のうち訪れた八幡神社は結構な由緒を持っていて、源氏の何某などが出てきて面白かったが、このところ訪れる八幡様は案外に小さくて由緒のはっきりしないものもある。今回もそうだったなあという、少し残念な気持ちになってしまった。
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 石段を下り切り橋を渡ったところで振り返り、写真を撮っていると、橋のたもとの掲示板に気付いた。町内の掲示板かと思ったが、それは神社の掲示板であった。そしてそこにA4版の紙で由緒書きが貼られていた。

 読んでみて驚いた。神社の創建は、鎌倉時代の建長年間(1249年~1256年)という。しかもこの神社の西側の篭谷戸と呼ばれる辺りが当時は入江になっていて、多摩川沿いの良港であったと書いてある。さらに、谷戸の上には鎌倉街道の往還があり、港と接続していたというから、交通の要衝となっていたといえる。八幡神社は、そのような人々の集まる場所に、鎌倉武士が祀ったものとされている。

 身近にある中世を、私は知らなかった。しかし、この上なく嬉しかった。急に、自分が中世と近くなった気がした。静かな住宅街に、往時の活気ある港の賑わいが聞こえてくる。目の前の小さな丸子川の流れが膨らんで、入江の港となる。荷さばきをする人たちの様子が浮かぶ。
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 ここで私は、新たな荏原の視点を知った。多摩川の水運である。これを頭に入れておかねばと思った。それから鎌倉街道である。これはひそかに目を付けてはいるが、改めて荏原の歴史には欠かせないものだと思った。とにかく荏原の中世を新たに知ることができて、楽しくなってきた。

 また、この八幡神社は江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に、戦国大名北条氏照の旧臣である落合氏の子孫が中興したという歴史もあるそうだ。小さな社だなどとがっかりすることはなかった。大きな歴史を持った社であった。そして私も大きな収穫をもって、今回の散策の帰途に就くことができた。



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by ebara_explorer | 2007-08-15 20:36 | 八幡宮めぐり

西守稲荷神社

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 田園調布とお稲荷様、何とはなしに似つかわしくない取り合わせである。しかし田園調布にもちゃんとお稲荷様はいらっしゃる。私の稲荷リストにも載っている。

 それを訪れるため、東急東横線の多摩川駅で降り立った。駅前から東急多摩川線の踏切を渡る。すると急坂にさしかかる。これを富士見坂という。この辺りは富士山を見るのに良い場所だったのだろう。先日訪れた多摩川浅間神社もここから程近い。

 坂はカーブしていて、先が見えない。この先ものすごい傾斜になっていたらどうしようと考えながら上って行くと、あながちその不安が外れてはおらず、けっこうな急坂であった。

 上り切ると静かな住宅地となる。交差点を渡って東へ進むと、住宅の中にお稲荷様がある。西守稲荷神社という名前だ。

 これまで見てきたお稲荷様のように、境内はさほど広くない。また児童公園も兼ね備えていて、すべり台やブランコがある。その奥にちょこんと社殿が置かれている。特に由緒書きもない。
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 奉納された紅い幟が風にぱたぱたと揺れる中お参りをして、狐様を眺めてから境内を出ると、隅に案内板のようなものがあった。「神代(やしろ)、お狐、鳥居、玉垣、等大切にしてください」、「境内及び塀際に物を置かないようにしてください」という注意書きの下に「西守稲荷講」と書かれている。このお稲荷様の講があるということだろうか。これは興味深いことに思われた。

 神社を出てさらに東へ向かうと商店街に出た。この通りの名を六間道路というようだ。昔からありそうな道である。この通りはすぐに中原街道へ合流している。

 中原街道に沿って、今度は西へ向かう。すぐ目の前が多摩川の河川敷で、丸子橋が架かっている。西へ歩きながらふと「西守」とはどういう意味かと考えてみた。文字通りに捉えると「西を守る」ということになる。西にある多摩川の向こうから来る何かを守るということなのだろうか。そんな考えを巡らせているうちに、川沿いの多摩堤通りに出た。



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by ebara_explorer | 2007-08-10 22:41 | お稲荷様

岡本八幡神社

 下山稲荷神社から再び丸子川沿いへ戻り、さらに川に沿って進む。晴れて暑かったこの日、坂を上ったり下りたりしているうちにだいぶ汗をかいた。喉も渇いてきた。しかし川の周辺は静かな住宅街で、飲料の自販機もない。仕方なしに歩き続ける。ただ、川のすぐ北側が静嘉堂文庫を囲む木立になっていて、それがいくらか涼を運んでくれた。

 しばらく行くと岡本公園に出た。次の目的地はこの公園の奥にある岡本八幡神社だ。お稲荷様めぐりの後は八幡宮めぐりである。だがそこへ行く前に、とりあえず少し休むことにする。休憩するのに良い場所がある。

 公園内には民家園がある。そこには旧家が復元してある。藁葺きのがっしりした家屋であった。暑さで呆然としながらその家へ歩を進める。とにかく日差しから逃れたかった。
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 土間へ入り、汗をぬぐいながら旧家のいわれを読む。旧長崎家住宅と呼ばれるこの建物は、区内の瀬田にあったものだそうだ。18世紀末に建てられたものだという。これもまた、荏原の昔の眺めを知ることができるものである。

 説明を一通り読んでから辺りを見回していると、裏口から係りのおばさんが出てきて「こんにちは」と声をかけてきた。慌てて挨拶する。

 土間から板の間に上がり込む。暑いのに、囲炉裏の火が燃えていた。隅にはポットと急須と茶碗があった。見学者用のお茶のサービスだろうか。喉がカラカラなので思わず飛び付く。ポットには熱湯が入っていた。囲炉裏の火で沸かしたのだろうか。

 温かいお茶をいただく。熱さよりも、体に水分のしみわたっていく歓びの方が勝っていた。ホッとする。

 土間のとなりが座敷である。開け放たれた障子戸の向こうに、外の暑い景色がぼうっと広がっている。そこから、暗い室内をわたってくる風は涼しい。汗が引くまで、ただぼんやりとした。

 いくぶん生き返ったところで旧家を出る。再び暑さの中だ。家の裏手へ回ると目指す岡本八幡神社がある。白い鳥居をくぐり、石段を伝って再び斜面を上る。上り切ると、正面に小ぢんまりとした社殿があった。特に案内板もなく「八幡宮」とだけ書かれた碑が脇に建っている。石段のそばに干上がった御手洗台があって、何となく虚しい。ひっそりとした八幡神社であった。
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 特にいわれもわからないので、ただただお参りするしかなかった。予想以上に小さな社であった。それはまるで、民家園の屋敷神のようでもあった。

 帰りは脇の坂道をたどった。だらだらと下りて振り返ると、旧家と社を囲む木立は深く、それを見下ろす空が広く高く感じられた。東京の空とは思えなかった。

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by ebara_explorer | 2007-08-08 22:26 | 八幡宮めぐり

下山稲荷神社

 瘡守稲荷神社から来た道へ引き返し、玉川病院沿いの急坂を下って丸子川沿いへ戻る。そのまま西へ向かうと、下山橋という橋がある。ここから道を少し入ったところに静嘉堂文庫がある。明治の実業家である岩崎弥太郎の文庫があったところで今は彼のコレクションを展示する美術館となっている。寄ってみたいところだが、開催中の展覧会はさほど興味がないので今回は行かない。それよりも稲荷神社だ。この近くの瀬田四丁目四十一番にも稲荷神社がある。すっかり私はお稲荷様に取り憑かれている。

 鬱蒼とした木立の縁を回って急な坂を上り切ると、その木立への入口があった。瀬田四丁目広場とある。稲荷神社はこの辺りのはずだが、広場の中にあるのだろうか。広場に人影はなく一般の民家のようでもあったが、お稲荷様を見たい一心で中へズンズン入る。

 正面に建物があった。旧小坂家住宅という古い建物で、内部を公開しているようであったが、私の足は右手の庭の方へと向いていた。庭に稲荷神社があるのではないかと思う。庭と言っても、木々が生い茂っていて暗い。入口に、虫除けスプレーをしていくようにという案内があったが、ともかくもそのまま突き進む。

 川へ向かった斜面を下って行く。さっき坂を上ったばかりなのにまた下ってしまうのはもったいない気がしてきた。木々に日差しを遮られ、足元はジメジメしてくる。一歩一歩気を付けながら、道ともつかない斜面を下る。
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 下り切ると竹薮になった。かつての荏原はいづこもかくありなむ、などと思いながら歩を進めると、一番奥の角に何やら史跡の案内板が見えてきた。しめた、と思う。

 近寄ると庚申塔があった。また嬉しくなる。庚申塔は昔から好きだ。案内板によると、二基ある庚申塔はもともと、ここから近い玉川四丁目の幽篁堂庭園というところにあったそうだ。庭園が平成十三年(2001)に廃止された際、世田谷区に寄贈されたので、ここへ移ってきたと案内板に書かれている。

 幽篁堂庭園には添景として石造物が多くあったのだという。ということは、この庚申塔が古来その庭園の場所にあったとは思えない。どこからか持って来たものなのかもしれない。それでも、この瀬田四丁目や玉川四丁目近辺に存在していたように思う。一基には慈眼寺の近くで見た庚申塔と同様、笠が付いている。
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 笠のある一基には青面金剛と三匹の猿が彫られている。よく見るタイプだ。だがもう一基には一体の猿が大きく彫られている。これは珍しい。猿は薄ら笑いを浮かべているようでもある。
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 面白がって屈みながら眺めていると、腕の辺りに蚊が山ほど寄ってきていた。たまらず振り払うが、後から後から蚊がやって来る。猿とゆっくり対面する余裕はなかった。

 庭の中に稲荷神社はなかったので、早々に退散する。再び傾斜を上り、暗い木立から抜け出たときはホッとした。

 広場の入口を出て、塀に沿って歩いて行くと、ようやく木立の中に赤い鳥居を見つけた。旧小坂家住宅の敷地の北東隅である。木々に隠れるようにして、小さな社殿があった。ここは下山稲荷神社という名が付いているが、まさにこの小坂家住宅の「屋敷神」というくらいの小ぢんまりしたものであった。稲荷神社の原形を見る思いがした。
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 鳥居をくぐって木立に入った私は、また蚊が寄って来ないうちに外へ出ようと、急いでお参りを済ませた。


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by ebara_explorer | 2007-08-04 11:12 | お稲荷様

瘡守稲荷神社

 荏原の史跡めぐりは自在である。思い立ってふと好きなところへ出かけることができる。前後の脈絡はない。好きな順に好きなところへ行けば良い。

 この日は二子玉川へ出かけた。二子玉川周辺にも名所旧跡が点在している。まずは駅前の玉川通りを北へ向かう。左から高架橋が寄って来た辺りで、通りは小さな川の流れとぶつかっている。丸子川という。この川沿いが今回の目的地である。

 玉川通り沿いの歩道から階段を下りて丸子川の流れに行き着く。細い川は、夏の日差しの下で淀んでいた。川に沿って西へ歩き、一つ目の橋を渡って北へ向かう。川から離れれば、道は上り坂となる。上り始めると余計に暑く感じられる。熱せられたアスファルトがむんむんとしてくる。

 左手に社が現れた。瀬田玉川神社という。玉川神社と名乗る社は、多摩川沿いにいくつかある。お互いが関係しているのかどうか、まだ調べてはいない。暑いのでともかくも木立のある境内へ入る。

 高台にあるこの社の南側が、丸子川そして多摩川へ向かった斜面になっている。本来ならば多摩川の広い河原を見通すという眺めになるはずだが、今は境内のすぐそばまでぎっしりと住宅が建ち並んでいる。川の流れはまったく見えなかった。

 暑さの余り癒えないまま裏手から境内を抜けると、慈眼寺という小さな寺が隣接していた。ちょうど参道の工事をしていて中へ入りづらかったので、そのままやり過ごしてしまった。後で知ったことだが、この寺は中世からの歴史をもつ古刹であった。惜しいことをした。

 寺の前の細い路地を抜けて辻に出ると、庚申塔があった。瀬田四丁目十一番地の角である。辻に庚申塔は付き物であるが、予期せぬところで出会ったので急に嬉しくなる。
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 二基の庚申塔のほかに「笠付庚申塔」と書かれた碑が建っていた。見ると大きな方の庚申塔には確かに笠が付いている。このような庚申塔を見るのは初めてだ。小さい方の庚申塔には「享保」の年号が読み取れた。荏原の庚申塔ではよくこの「享保」の文字を見かける。享保年間は庚申塔建立のブームだったのだろうか。

 道をさらに北へ向かう。目指すところはお稲荷様である。しばらく行くと信号のある角が見えてきた。そこが「稲荷神社前」という交差点だ。この手前の左側に稲荷神社はある。瀬田四丁目三十二番地にあたる。

 狭い境内は街角の児童遊園のようになっており、すべり台などがある。そして一番奥に社殿が小ぢんまりとある。公園の一角にお稲荷様があると言った方が良いかもしれない。
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 社の名を瘡守稲荷神社という。読み方がよくわからなかったが、境内には「かさ守稲荷神社」という案内板が出ていた。「かさもり」と読むのだろう。

 地図上で見つけたときから珍しい名だと思っていたが、いったいどのようないわれがあるのだろう。境内には何の案内もなかった。ただ、瘡は「きず」とも読む。お参りすると傷が治るとか、そういういわれが想起された。



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by ebara_explorer | 2007-08-01 22:53 | お稲荷様