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清水窪弁財天

 水辺を辿る旅は続く。自転車を駆って、環七通り沿いを目黒区から大田区目がけて下り、「南」交差点の先で右に折れて北千束一丁目の住宅街に入る。しばらくさまよううち、鬱蒼とした一角を見つけた。そこが清水窪弁財天である。
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 木立の中に池があり、その奥には小さな滝がある。水源がどうなっているのか見えないが、崖の上から水がこんこんと湧き、滝に落ちていく。そして滝のとなりには弁天様が祀られている。弁天様は二百年ほど前に祀られたと由緒書きに記してある。この湧き水を守る神様であろう。
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 ここは武蔵野台地の端で千束の谷が尽きるところにあたり、この湧き水は洗足池の源流にもなっているという。かつては用水として千束の谷の水田を灌漑していたそうだ。

 池の周囲には、いくつもの小さな祠が並んでいる。弁財天の他に、三社大口真大神、天圀蔵五柱五成大神、三徳大明神、天五色大天空大神、馬頭観世音、天大圀主之命と、あらゆる神様が揃っている。湧き水という神秘に、神様が集ってきたのだろうか。いつの頃から、こんなにたくさんの神様がいらっしゃるのだろうか。何とも不思議な空間であった。


 洗足池の源流ということは、ここから洗足池まで流路がつながっていたはずである。それを辿ってみたくなった。ここへ来るとき、片側の歩道が不自然に広い道を通って来た。それが流路跡ではないかと思う。

 清水窪小学校の西側を抜ける道に、その広い歩道が続いている。歩道へせり出すように伸びた木がある。かつては流れの上にせり出していたに違いないと思う。

 道に沿って行くと、線路にぶつかった。東急目黒線である。大岡山駅のすぐそばだ。直進できないので、いったん坂を上って跨線橋を渡り、また坂を下って行く。すると再び広い歩道のある道に辿り着いた。嬉々としてその道を行く。直角に交わる道のいずれもが、両側は上り坂になっている。つまりこの道は谷の底だ。水の流れがあったに違いないと確信する。
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 そのまま道に沿って行くうち、あれよあれよと言う間に洗足池公園へ着いてしまった。そして公園北側のグラウンド沿いで、流れはついに地上へ現れた。細い流れであるが、清水窪から続いてきた流れに違いないと思う。
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 水を辿って行くと、それは間違いなく洗足池に流れ込んだ。すると、そのすぐ近くには、また弁天様が現れた。以前に千束八幡神社を訪れたときにちらっと見た弁天様である。そのときは清水窪からの流れにはまったく意識がなかったが、池のこの場所に弁天様を祀っている理由が何となくわかったような気がしてきた。清水窪からの流れが注ぎ込むこの辺りは、洗足池の中でも水の「源流」と言って良い場所ではないだろうか。
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 洗足池から先も流路は続き、やがてそれは呑川に合流しているようだ。でも、今日の探索はここまでにしておく。清水窪から洗足池までスッと行き着いて、まさに溜飲の下がる思いであった。

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by ebara_explorer | 2007-09-27 12:36 | 水辺

碑文谷厳島神社

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 荏原には幾筋もの川の流れがある。その流れの源は、大きな池であったり、湧き水であったりする。そしてそうした水辺には、弁天様が祀られている。弁天様は水に関わりの深い神様である。正確に言うと、弁天(弁財天)は本来仏教の神様である。それが神仏習合により、日本の神である市杵島姫命や宇賀神と結び付いたものである。だから弁天様は、市杵島姫命や宇賀神が祀られている神社である。

 ところで、人が生きていくために、水は欠かせないものだ。それは荏原の歴史を遡っても同じことである。特に近世以降、荏原が農地として拓かれてからは、その必要性が増しただろう。荏原の歴史において、水の在り方を考えることは重要だ。今に残る弁天様はその水の尊さの表れでもある。

 現代では、水道の蛇口をひねれば水が滔々と流れ、それをそのまま下水に流している。飲み水は、近所のコンビニでペットボトルのミネラルウォーターを買ってくる。水がどこから来て、どこへ流れて行くか、人々の関心は薄い。そして今、荏原の川の多くは暗渠となった。遊歩道として流路が辿れるところはまだしも、いつしか住宅や街の中に埋もれてしまったところもある。だがそれらを掘り起こし、水の歴史を辿ってみたいと思う。合わせて、弁天様の信仰も見ていきたい。


 まず訪れた水辺は碑文谷池である。現在は池の周囲が碑文谷公園となっている。公園の真ん中すなわち池の真ん中の島には、厳島神社が鎮座している。厳島神社といえば広島の宮島がすぐに思い浮かぶが、その宮島の厳島神社も水辺の神であり、日本三弁天の一にも数えられている。弁天様と「厳島神社」は密接な関係にある。
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 碑文谷池の厳島神社も弁天様が祀る社である。その弁天様は、江戸時代に碑文谷を知行していた旗本神谷氏が奉ったものだという。だが現在、神社に弁天様はいないようだ。境内の案内板には、近くの碑文谷八幡宮に仮安置されていると書かれている。というのも三年前、この神社の拝殿・本殿・社務所が放火に遭ったからである。幸いにして現在は建物が再建されているが、弁天様が戻ってきているかどうかはわからない。それにしても放火とは、本当に心ないことをするものである。やはり現代は、水を尊ぶ心に欠けていると思う。

 この碑文谷池は、立会川という川の源流の一つであった。目黒区南部から品川区を経て、東大井で海に注ぐ立会川はかつて、農業用水として重要な水脈であったという。現在、立会川が流路として地上に現れるのは河口近くのほんの一部である。それ以外は道路あるいは遊歩道となっている。そして源流であるこの碑文谷池から円融寺付近までは、流れの跡を追うことさえ難しくなっている。池は孤立したような形になり、もはや立会川とは無縁なように見える。しかし、源流の碑文谷池の弁天様は、下流までも含めて、立会川の水すべてを守る神様であると言えるだろう。その尊さを忘れてはならないと思う。



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by ebara_explorer | 2007-09-19 23:45 | 水辺

東光寺-吉良氏学び始め

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 荏原の歴史において、大きな影響力を持っていたのが世田谷吉良氏である。荏原の「戦国大名」といっても良い。特に世田谷の歴史を知る上では、最も重要な一族である。

 その吉良氏の存在があまりにも大きいため、私はなかなか正面から向き合えずにいた。しかし、いつまでも逃げている場合ではない。この旅も進まない。そこで、盛夏の頃から世田谷吉良氏について、少しずつ調べ始めた。

 吉良氏は足利氏の庶流で、三河国吉良荘より起こった一族である。承久三年(1221)の承久の乱後、足利義氏が地頭となり、これを庶長子長氏に伝えて御家人吉良氏が成立した。吉良氏はその後、嫡流の西条吉良氏から東条吉良氏、奥州吉良氏が分かれの三流となった。のちに世田谷吉良氏となるのは奥州吉良氏である。吉良といえば有名な人物が忠臣蔵の吉良上野介義央であるが、彼は東条吉良氏の子孫である。

 奥州吉良氏は長氏の弟義継を祖とする。義継から経氏、経家を経て、その子貞家が室町幕府の奥州両管領(奥州探題の前身)の一方として陸奥に赴任した。貞家は観応の擾乱に際してもう一方の管領畠山国氏を倒し勢力を拡大した。しかし、貞家の子治家は、新たに派遣された一方の奥州管領斯波氏に圧迫され、奥州での勢力を失ってしまう。そこで吉良氏は武蔵国へ移り、世田谷と蒔田(現・横浜市南区)を領する小領主となった。ここからが世田谷吉良氏の歴史の始まりである。

 治家から数えて七代目の頼康に至ると、関東で戦国大名として勢力を拡大していた北条氏綱の娘を妻とし、北条氏の保護を受けるようになった。しかし、天正十八年(1590)に北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、頼康の養子氏朝は徳川家康に降り、氏朝の子頼久は上総国寺崎郷に所領を与えられ旗本蒔田氏となった。その後、頼久の曾孫義俊に至り吉良氏に復したという。

 この治家から頼康にかけての、室町時代初期から戦国時代末期までの間が、世田谷における吉良氏の活動時期である。この間、吉良氏は世田谷を中心とした各所にさまざまな足跡を残している。これから私は、その足跡を辿っていこうと思っている。



 手始めに訪れるのは、我が家の近所にある東光寺である。目黒区八雲にある東光寺は、世田谷吉良氏に関わりの深い古刹だ。私は近所に三十何年と住みながら、実はこの寺を訪れたことが一度もなかった。小学生の頃くらいまでは、ちょっと怖い場所という印象もあった。特に、寺の裏手の墓地と、都立大学の間の道は薄暗く、幼い頃はあまり通りたくないところであった。

 今回、世田谷吉良氏について本格的に学ぼうと覚悟を決めるに際し、この寺への参詣を端緒にしようと考えた。東光寺を皮切りとして、吉良氏に関わる史跡を次々と訪れていくつもりである。
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 通り慣れた八雲通りから、石畳の参道を抜けて境内に入る。入口には「吉良氏菩提所」と書かれた碑が建っている。そして正面には大きな本堂がどっしりと構えている。現在当寺は曹洞宗であるが、曹洞宗らしい豪放な造りだ。
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 東光寺はもともと臨済宗であるという。南北朝時代の貞治四年(1365)に、吉良治家が子息祖朝の菩提を弔うために建立したのが始まりとされている。祖朝は十歳で夭折してしまったそうだ。

 またこの貞治四年(1365)は、吉良氏がこの辺りの碑文谷、衾(現・八雲、東根、柿の木坂、中根、自由が丘、緑が丘、大岡山、平町)を領地に加えた年であるとされている。そこでこの寺は、吉良氏が衾支配の拠点としたところではないかとも考えられている。寺はかつての鎌倉往還とも伝えられる八雲通りに面し、そのすぐ南側には呑川が流れている。一方、背後の北側には大原台へと続く崖が迫っている。ここが中世衾の中心地であったのかもしれない。

 本堂左手に広がる墓地の奥に、吉良家墓所があった。古びた宝篋印塔が建っている。祖朝、七代城主頼貞、八代城主氏朝娘のものと伝えられるそうだが、刻まれた年号は江戸時代のものであるという。それでも、吉良氏に関わりの深い宝篋印塔であることに変わりはないだろう。
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 身近なところに、これほど立派な石塔があるとは知らなかった。身近なところにある吉良氏の足跡を私は知らなかった。この墓所へ参り、私は吉良氏について学んでいくことを誓った。



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by ebara_explorer | 2007-09-18 22:37 | 吉良氏

中目黒八幡神社

 東急東横線中目黒駅から、中目黒GTプラザや目黒区役所の大きな建物を見ながら南へ向かい、駒沢通りを越えると、静かな住宅街になる。その中に、背丈の高い木が何本も見えてくる。上の方は幹が切られ、ちょっとみすぼらしくなってはいるが、古そうな木だ。そこには中目黒八幡神社が鎮座している。八幡宮めぐりとしてこの神社を訪れた。
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 神社の東側参道から入る。この参道は目黒川の方を向いている。現在は住宅が密集しているこの辺りも、かつてはもっと見通しが良く、川から八幡の杜が望めたのではないかと思う。

 参道は坂と石段になっていて、本殿は高台にあった。本殿は南面しており、南側はわりと視界が開けている。荏原には、本殿がこういう向きになっている八幡神社が多い。
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 お参りをしてから、本殿脇の案内板を読む。どんな由緒があるのかと期待していたが、幾度か火災に遭っているため記録や資料に乏しく、創建の年代は不明であるという。残念だ。旧中目黒村の鎮守になっていたというから、江戸時代にあったことは確実である。ただ、鎌倉の往還からはやや離れているから、源氏の何某が創建したという由緒はなさそうだ。中世にこの辺りを領した武士が勧請した社なのかもしれない。

 本殿の近くにも高くて大きな木があった。初秋の白い空の下、葉はまだ夏の青々しさを残しており、境内を彩っていた。
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 参道脇には、湧き水が出ていた。ちょうど近所のおじさんがペットボトルを持参して、湧き水を採取していた。その奥には池があり、崩れかけた蓮の葉が一輪だけ残っていた。そこに銀ヤンマが止まっている。去り行く夏と、やって来る秋を感じさせる境内であった。

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by ebara_explorer | 2007-09-17 21:43 | 八幡宮めぐり

八雲氷川神社

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 9月15日と9月16日は、近所の八雲氷川神社の祭礼であった。幼い頃から、氷川神社の「お祭り」の日は家の周りが何となく華やかで、楽しみな日であった。ちょうど暑さが和らぎ、何となく過ごしやすくなる頃でもあり、時期的にも良い。

 今年は荏原の歴史を旅するようになったこともあり、祭礼にあたって氷川神社の歴史についても改めて調べてみた。すると、知らないことがいろいろとあった。まさに灯台下暗しである。

 八雲氷川神社は旧衾村(現・八雲、東根、柿の木坂、中根、自由が丘、緑が丘、大岡山、平町)の鎮守であった。神社の創建については不明であるそうだが、江戸時代の宝暦七年(1757)の文書に「鎮守氷川宮」の「鳥居」建立についての記録があるという。

 この神社は古くから「癪(腹痛)封じの神」として信仰されていたそうだ。近郷近在のみならず、遠方からも参詣者があったそうで、そのために境内には宿泊所もあったという。今の静かな境内からは、想像もつかないことである。また、境内に残るアカガシは、癪封じのご利益があるとされ、煎じ薬にするため皮をはぐ参詣者が後を絶たなかったため、ついに枯れてしまったと伝えられている。

 そんな昔の賑わいをわずかばかり取り戻すのが、祭礼の日かもしれない。参道に露店が並び、近所の子供たちが繰り出す。しかしその賑わいも、私が子供の頃に比べてだいぶ小さくなったように思う。少子化の影響だろうか。また「高級住宅街」と揶揄されるこの辺りには新たな居住者が増えて「地縁」が薄くなっていることも関係しているのかもしれない。

 祭礼の日には、境内の神楽殿で神楽が奉納される。私は小学校で歴史を習い始めた頃に一度見たことがあるような記憶があるが、そのときのことはもうあまりはっきりと憶えていない。今年はそれ以来、久しぶりに神楽を見た。祭神の素戔嗚尊やその姉の天照大神などが登場し、なかなか豪勢であった。

 白眉は「剣の舞」である。二本の剣を使った舞が奉納される。素戔嗚尊の八岐大蛇退治の物語を表したものであるというが、当地の繁盛を祈願するものでもあるようだ。

 地元に古式豊かな文化が伝わっていることを、嬉しく思った。ただ、舞う人も、後ろで太鼓や笛を奏でる人も、みな年配の方だ。この文化が、後世に伝わっていくのかどうか、不安はある。この地に育ち、暮らしてきた者として、文化の継承のために何か役立てないだろうか、とも考えてみた。



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by ebara_explorer | 2007-09-17 13:06 | 神社

笠間稲荷神社

 東急東横線中目黒駅前から山手通りを北へ行き、二つ目の信号の角を右に曲がると目黒川に出る。ここに架かる橋を渡った左手に稲荷神社があるのを、地図で見つけていた。

 しかし現地に行ってみると、そこには大きな集合住宅が建っていた。本当にお稲荷様があるのかと、不安になりながら橋を渡って行く。

 角の集合住宅の裏口にさしかかると、奥に紅い鳥居が見えた。これだ。集合住宅の敷地内ではあるが、お参りだけさせてもらおうと、そこへ入った。

 集合住宅裏手の一隅に、ちょこんとお稲荷様はいらっしゃった。鳥居の額に「笠間稲荷」と書かれている。これが地図に書かれていたお稲荷様だ。名前も一致している。
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 地図上で鳥居のマークだけを見れば、参道があって、本殿があって、という社をイメージする。だが、そこにあったのは本当に小さな社殿だけであった。それはまるで、この集合住宅の屋敷神のようであった。

 通りへ出て、目黒川に架かる橋の方へ戻る。橋の名を宿山橋という。ここはかつての鎌倉街道であるとも伝えられている。道を北へ行けば、豊島郡の渋谷へとつながっている。鎌倉街道探訪はいずれまた行うつもりなので、そのときはまたここへ来るはずである。

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by ebara_explorer | 2007-09-14 21:21 | お稲荷様

旗岡八幡神社補足

 近所の史跡めぐりの旅は、やり直しがきく。見学した後に復習した結果、こんなこともあったのか、あれを見ておけばよかった、ということがあって、もう一度行きたくなっても、すぐに行くことができる。

 以前訪れた旗岡八幡神社には、補足しておかないといけないことがあった。それは神社に隣接する法蓮寺のことである。旗岡八幡神社を訪れた後に調べたところ、この寺は旗岡八幡神社の別当寺であったという。

 すでにいくつかの八幡神社を訪れて確認している通り、荏原では八幡神社の近くに日蓮宗の寺院があり、そこが八幡神社の別当寺になっていたという例が多い。旗岡八幡神社も、そういえばお寺がとなりにあったなと思って調べてみると、やはり日蓮宗の寺で、神社の別当寺になっていた。前回、旗岡八幡神社を訪れたときは法蓮寺を素通りしていたので、改めてこの地を訪れてみることにした。

 法蓮寺は東急大井町線の荏原町駅を降りてすぐのところである。電車からもよく見えるので、前々から見知っていたが、訪れるのは初めてである。
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 大きな本堂の奥にはちょっとした庭園もあり、落ち着いた雰囲気のする寺であった。庭園の脇に、石碑が建っていた。正面には「当社八幡宮 南無妙法蓮華経 日蓮大聖人御勧請」と刻まれている。題目の脇に「八幡宮」とあるのは何とも違和感がある。だがこれこそ、法蓮寺が旗岡八幡神社の別当寺であったことを示すものだと言える。
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 石碑の両脇には「正徳五乙未天 武州荏原郡中延村 長林山法蓮寺」「五月八日市谷田町下二丁目 願主川口・・・ 石屋・・・」とあった。題目供養塔のようなものであろう。正徳五年は江戸時代中期の1715年にあたる。この法蓮寺と旗岡八幡神社は、江戸名所図会に「中延八幡宮」の名で登場している。江戸郊外のちょっとした名所でもあったようだ。

 また、当寺は鎌倉時代にこの辺りを領していた荏原氏の館跡とも伝えられているそうだ。まさに荏原の中心というべき地なのかもしれない。荏原をめぐる私にとっては重要な場所だ。

 法蓮寺を辞してから、旗岡八幡神社を再訪してみた。前回訪れたのは茅の輪くぐりの頃だったが、季節は流れて晩夏になっている。神社では秋祭りの準備が行われつつあった。

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by ebara_explorer | 2007-09-11 22:30 | 八幡宮めぐり

旗の台伏見稲荷神社

 旗の台駅周辺にはもう一つ稲荷神社がある。中原街道沿いを南へ下って、東急大井町線のガードをくぐると、左手へ入る道に「稲荷通り」という名が付いている。
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 この通りは別名「三間通り」といって、商店街になっている。通りへ入ると、稲荷神社はすぐにあった。社殿は少し奥まったところに鎮座していた。

 神社の名を「旗の台伏見稲荷神社」という。全国の稲荷神社は、伏見稲荷神社を分祀したものであるといわれるが、その「伏見」の名をそのまま社名に持ってきているのは珍しい。
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 小さな社殿の前に貼られた由緒書きを見て驚いたのは、創建年代である。大正十五年(1926)のことだという。近代以降にもお稲荷様は創建されていたとは、意外である。

 由緒書きによれば、このお稲荷様は霊験あらたかであるという。太平洋戦争の折に、この旗の台伏見稲荷神社に出征祈願をし、戦地に赴いた百二十人は、全員が生還したそうだ。また、お稲荷様の鎮座する旗の台南町会は、この地域が激しい空襲を受けたにも関わらず、安泰であったという。
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 そして現在、この商店街はなかなか賑やかで、繁盛しているように見える。荏原町駅付近まで続く三間通り沿いを歩いたが、活気のある通りだった。これもお稲荷様のご加護があってこそなのかもしれない。



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by ebara_explorer | 2007-09-08 23:45 | お稲荷様

木霊稲荷神社

 久しぶりにお稲荷様めぐりに出かけた。今回の目的地は旗の台である。

 旗の台駅の北口から、商店街を抜け中原街道沿いに出る。通りを少し北へ向かうと、レストランの陰に小さな祠が見えた。旗の台一丁目二番地にある木霊稲荷神社である。
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 祠は何とも小さかった。しかもレストランの建物がせり出していて、圧迫されているようでもある。私が今まで「稲荷神社」という名前で訪れてきた社の中では、一番小ぢんまりとしている。狐様も小さかった。

 祠の脇に「木霊稲荷神社縁起」と書かれた木札が立っている。このような小さな社のいわれを是非知りたい。そう思って読もうとしたが、札の字はにじんでいて、ほとんど判別がつかない。わずかに最初の「この地に・・こと五百年」というところと、途中に「伏見」という文字が見えるだけだ。しかもこの札は腐食を防止するためか、透明のケースに覆われている。それが夏の日差しに反射したりして、余計に見にくい。

 人通りの多い街道沿いで、私はしばらく木札と格闘していたが、縁起の判読は諦めた。きっと何かの文献に、この縁起が記されていることと思う。それを絶対に探し当てようと思った。

 祠の裏手に回ると、別の案内板が立っていて「中原街道高札場跡」と書かれていた。中原街道沿いのここに江戸時代、高札が立っていたようである。案内板によれば、江戸時代から大正時代まで、この地の俗称を「札場」といったそうだ。
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 さらに道を隔てた反対側の物陰には、庚申供養塔がひっそりとあった。寛文五年(1665)旧中延村庚申講中造立の銘がある。これは今まで見てきた庚申塔とは違う。青面金剛が彫られていない。猿もいない。日も月もない。代わりに石塔の真ん中には題目が刻まれている。日蓮宗のものだ。傍らの案内板には、この辺りの旧中延村が「全村のほとんどが日蓮宗といわれる」と書かれていた。またも、日蓮宗の影響の強さを思い知らされる史跡であった。
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 供養塔の土台には、小さな箒が立てかけてあった。花も水も供えてある。近所の人が毎日手入れしているのだろう。

 それにしてもここは、稲荷神社、高札場、庚申供養塔と、史跡が固まっている。中原街道の中でも、人の集まるところだったのではないだろうか。車が行き交う現代の騒音の向こうから、江戸時代の街道を行く人々の雑踏が聞こえてくるような場所だ。



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by ebara_explorer | 2007-09-07 22:41 | お稲荷様