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笠森稲荷神社

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 戸越八幡神社のすぐ近くに、小さな稲荷神社があった。笠森稲荷神社という。数本の紅い鳥居の間に、幟がびっしりと並んでいた。

 この「かさもり」という名は、地図で稲荷神社を探していたとき、他の場所にもあったように思う。どういう意味があるのだろう。思い出すのは以前に訪れた世田谷区瀬田の瘡守稲荷神社である。この社では「かさもり」に「瘡守」の字が充てられていた。ここではっと思った。瘡守の「瘡」の字は疱瘡の「瘡」ではないか。先ほど訪れた戸越八幡神社には、疱瘡の治癒にご利益を求める信仰があった。戸越八幡神社に近いこの笠森稲荷神社にも、同様の効験があって「かさもり」と名付けられたのではないか。稲荷神社では、例えば「稲荷森」が「十日森」となるように、読みが同じで他の字が充てられることもある。ここの「笠森」も、もとは「瘡守」で疱瘡の治癒に対する信仰があったのではないか。そんな気がしてきた。

 幟に気を付けながら小さな鳥居をくぐって祠に参ると、このお稲荷様にはたくさんの狐様がいらっしゃった。

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by ebara_explorer | 2007-10-31 23:38 | お稲荷様

戸越八幡神社

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 戸越八幡神社は、東急大井町線戸越公園駅の駅前商店街から少し外れたところにある。七五三詣の幟がはためく社に着くと、鬱蒼とした木立に覆われた細長い参道が続いていた。幹が太く、古い木が多い。すでに夕方のこととて、参道は薄暗く、その奥にちらっと見える銅葺きの社殿が神々しくあった。参道の木々を見上げると上の方にはまだ斜陽が当たっており、葉が明るく浮かび上がっていた。
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 参道に入ってすぐのところにある由緒書きを読む。それによると戦国時代の大永年間(1521~1528)、この辺りにあった清水の池に面した庵に、行永法師という諸国行脚の僧が立ち寄りうたた寝をしていたところ、夢の中で清水の池から光が放たれるのを見たという。そこで行永法師が池の中を探したところ、誉田別命の御神体を見つけたので、庵に祀ったそうだ。すると近隣の人々や往来の人々が祈願するようになり、その願いは一つとして成就しないものはないといわれるほどになったということである。そこでこの庵は「成就庵」と呼ばれるようになったと記されている。このさまを歌った次のような古歌があるそうだ。

 江戸越えて 清水の上の 成就庵 ねがひの糸の とけぬ日はなし

この歌の「江戸越えて」が「戸越」の地名の起こりであるとのことだ。

 その後、江戸時代の元禄元年(1688)十二月十五日に、御神体が現在地である村の高台に移されたそうだ。

 これまで見てきた八幡神社の由緒では、源氏をはじめ武士の関わるものが多かった。この戸越八幡神社のように、由緒に武士が関わらないものは珍しいと思う。また、当初から民衆の信仰に支えられていた八幡さまであったことが窺える。

 参道を進んで社殿近くまで来ると碑があり、そこには先の戸越の由来となった古歌とともに、安政三年(1856)刊行の『江都名所図会』に載せられた二つの狂歌が紹介されていた。

 疱瘡を 守る戸越の八まんに 神子は笹湯を あふる御祭

 疱瘡の 守りにせんと諸人が 戸越の宮に ひろふ軽いし

神事で笹湯を浴びることや境内の石を拾っていくことが、疱瘡の治癒にご利益があるとされていたのだろう。参詣者が石を拾って行ったさまが思い浮かんだ。

 社殿は安政二年(1855)に創建されたものだという。社殿の中には江戸時代の年号を持つ絵馬が奉納されているそうだが、見ることはできなかった。お参りだけして引き返した。
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 社殿の前の狛犬に目が留まった。案内板によると、延享三年(1746)に奉納されたものだそうで、品川区内では最も古い狛犬だという。また、銘文から造立には戸越村や平塚の庚申講が中心となっていたことがわかるそうだ。庚申講というのは、庚申信仰だけではなく、いろいろな信仰の担い手となっていたことがわかる。狛犬を眺めていると、区内最古というせいか、顔つきが他の社で見る狛犬とは少し違ってきついような気がした。
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 参道を戻り、途中で右手の小径に入ると、幼稚園を併設した行慶寺というお寺があった。門前には勇ましい青面金剛の彫られた庚申塔が建っていた。狛犬の造立に関わっていた戸越村の庚申講が建てたものだろうか。
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 社に隣接した行慶寺は、かつて戸越八幡神社の別当であったという。ただし、荏原の八幡神社でよく見られるような日蓮宗の別当寺ではなく、阿弥陀様を本尊とする浄土宗の寺であるという。成就庵の信仰には阿弥陀信仰も関わっていたのだろうか。他の八幡神社とは少し異なる戸越八幡神社の信仰は、荏原の中でも興味深い信仰である。


 後日、インターネットで戸越八幡神社のホームページを見つけた。そこには神社の由緒沿革が掲載されていた。その中で、行永法師が誉田別命の御神体を祀った数十年後の文禄元年(1592)に、行慶寺を開山した念誉上人が成就庵に八幡神社を建立し御神体と共に本地阿弥陀仏を祀ったとあった。

 神仏習合思想の本地垂迹説によれば、八幡神の本地仏は阿弥陀仏とされている。そういえば以前、大きな阿弥陀堂のあるお寺の境内に小さな八幡神社が祀られているのを見たことがある。八幡神と阿弥陀仏は密接な関係にあると言える。行慶寺に阿弥陀仏が祀られているのも納得がいった。



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by ebara_explorer | 2007-10-27 12:24 | 八幡宮めぐり

小山八幡神社

 小山八幡神社へ裏手の西側から近付くと、鬱蒼とした木立が見えてきた。かなり背の高い木々である。その木立の中へ飛び込むと「荏原七福神」の青い幟が見えてきた。小さな祠には大国天が祀られているようである。荏原七福神を訪れるのは、荏原町の法蓮寺(恵比寿様)に続いて二つ目である。この荏原史跡めぐりの旅を続けていくことで、やがて七福神すべてをめぐる日が来るように思う。
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 正面に回って本殿に参った後、由緒書きを探したが、どこにもなかった。しかし境内の雰囲気や、本殿のしっかりとした造りからして、江戸時代にこの辺りの旧小山村の鎮守であったことは窺える。
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 本殿の脇には小さなお稲荷様があった。こちらは紅い幟が立っている。村のどこかにあったお稲荷様が、この八幡様に合祀されたのだろう。こういう光景もだいぶ見慣れてきた。

 鳥居のある東側を向くと斜面になっていた。境内は高台にあることがわかる。すぐ東に立会川の流れがあるはずだ。境内からは都心方向へ建ち並ぶビル群が見渡せた。
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 神社に接して摩耶寺という寺があった。墓地の間の細道を抜けてその寺へ行ってみる。日蓮宗の寺であった。これまでいくつも見てきたように、荏原には八幡神社に接して日蓮宗の寺が存在するというパターンが多い。この摩耶寺も、小山八幡神社の管理を司る別当寺になっていたのではないだろうか。

 摩耶寺の名の由来は、釈迦の母である摩耶夫人の像が安置されていることに由来しているようだ。木造で極彩色の摩耶夫人像は、像内の墨書から延宝元年(1678)に日明が製作したものと知れるという。また、寺自体の建立は寛文七年(1667)であるという。
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 本堂は新しいコンクリート造りであったが、寺の名を記した扁額は古めかしく重厚であった。訪れたのは10月に入ったばかりの夕方であったが、境内には彼岸の名残の曼珠沙華が咲き残っていた。
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 帰宅してからインターネットで「小山八幡神社」を検索すると、東京都神社庁のホームページに神社の由緒書きが載っていた。それによると、創立年月は不祥だが社伝では鎌倉時代の創建だという。また、口伝では長元三年(1030)には旧小山村本村の氏神として崇敬されていたという。思っていた以上に古い由緒をもつ八幡神社であった。



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by ebara_explorer | 2007-10-24 23:28 | 八幡宮めぐり

小山厳島神社

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 以前訪れた清水窪弁財天から見て、環七通りを挟んだ反対側に別の弁天様を見つけた。東急目黒線を洗足駅で下車し、線路沿いを西小山駅方面へ道なりに進むと下り坂になる。その坂下に弁天様はあった。品川区小山七丁目五番地である。

 小さな池の奥に弁天様が鎮座している。比較的新しい社殿だ。軒下にある額を見ると「厳島神社」と書かれていた。水を守護する神様に間違いはないが、特に由緒書きはない。

 辺りを見回すと、社殿の左手に小さな石碑を見つけた。急いで近寄って見てみると「鳥居奉納 弁天講」と書かれ、人の名前がたくさん刻んであった。いつごろのものかと思って年号を探すと、石碑の裏に「昭和五年」とあった。比較的新しい。

 結局、小さな境内に由緒書きは見当たらなかったが、ここも清水窪弁財天と同じく、湧水の出るところなのだろう。地形を詳しく見ていないが、清水窪と一続きの崖線なのかもしれない。

 池には鯉が泳ぎ、噴水のように水が出ていた。ここから流路が出ていたのであろうか。

 周囲を見てみると、境内の南側に橋の一部を見つけた。そこには「弁天橋」と書かれていた。ここから流れが出ていたに違いないと思う。しかし、道を隔てた反対側は駐車場で、その先は民家である。
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 それでも何とか流路をたどろうと、小山八幡神社を参拝した後にここへ戻ってきた。弁天様は東西方向の窪みの底にある。とすると、流れは南北へ伝っていたはずである。橋が弁天様の南側にあるから、流れは南へ向かっているだろう。道を南へ歩き始める。

 小山七丁目六番、九番、十番を見ながら道を南下していく。交わる道は両方向とも、こちらの道に向かって下り坂になっている。流れの方向はこちらで間違いないと思う。しかし、流路はもとより、流れの跡のような細道も見えてこない。ただ、流路と想定されるところは、心なしか新しい家が多いように思う。

 小山七丁目という交差点に出た。複雑な五差路だ。交わる道の坂がなだらかになって、窪みが広がってきたように思う。しかも辺りは民家が密集している。こうなると流路の手がかりを失ってしまう。小山の弁天様が守護する水の流れ探訪は、ここで断念した。

 後日、この辺りの地形図を見てみると、南西の洗足池へ向けて土地が低くなっていることがわかった。流路は環七通りを越え、東急大井町線北千束駅付近を過ぎて洗足池につながっていたのではないかと思う。あるいは途中で、先に見た清水窪弁財天からの流路に合流していたのかもしれない。流れを完全に追うことはできなかったが、湧水の源に弁天様ありという信仰の形を、また見ることができた。



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by ebara_explorer | 2007-10-22 23:16 | 水辺

奥沢弁財天

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 奥沢神社の境内奥に、弁財天があった。木々が生い茂り鬱蒼としていて、薄暗いところだ。石碑に「奥沢弁才天社」と書かれている。しかし、そこにあるのは神殿ではなく岩屋であった。

 わずかな岩の隙間に石碑のようなものが見えた。周囲の雰囲気とあいまって、何とも神秘的だ。

 この弁財天の石碑は、もともと奥沢駅の南の商店街にあった湧水池に鎮座していたという。それが近代の耕地整理により、住宅地へと変貌して湧水も減り、水も汚れてきたため、昭和二十五年(1950)に奥沢神社の境内へ移されたそうだ。なお、湧水池は奥沢弁天池と呼ばれ、そこに住む白蛇が奥沢の耕地を潤していたという言い伝えがある。

 この前から「水辺」というテーマで、荏原の水に興味を持ち始めた私であるが、この奥沢の弁天様についても、もう少し調べてみたくなった。

 そこで奥沢神社前の自由通りを南下し、東急目黒線の踏切を越えて奥沢の商店街へと行ってみた。奥沢弁天池の痕跡が何かあるかもしれないと思ったからである。

 だが、商店街には何もそれらしきものはなかった。どこが池だったのかもよくわからなかった。駅前に戻ると噴水があったが、これは奥沢弁天池とは何の関係もなさそうだ。結局、奥沢弁天池の痕跡は見つからなかった。

 しかし、池があったということは、そこから流路が出ていたはずである。その痕跡はあるかもしれないと思い、探してみることにした。

 まずは谷を探す。奥沢駅の踏切を越えた自由通りが下り坂になっている。下り切ったところが、踏切から一つ目の信号のある角あたりだ。これを東へ折れる。すると、この道に交わる路地は北側も南側も上り坂となった。明らかに窪みになっている。ここが流路ではないかと思って辺りをさまよううち、ついに細い流路を発見した。奥沢一丁目三十一番地のところである。
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 流れは家と家の隙間にあり、歩いて沿って行くわけにはいかない。それで区画の周囲をぐるっと回って、反対側の道に出た。流路はなおも東へ続いていたが、三十番地の先で地中に潜ってしまった。しかし、先には不自然に幅の広い歩道が続いている。この下が流れだと思い、それにそってさらに東へ向かう。私は残暑の厳しい中をひたすらに歩いた。

 やがて道は奥沢中学校に行き当たった。そして直角に南へ曲がっている。幅の広い歩道も南へ続いている。それに沿って歩いて行くと、公園のある一角に出た。この先歩道は見当たらず、行き詰ってしまったが、東へ向かう道が幅広い。それに沿って行くと、道は呑川に行き当たった。奥沢からの流れはここで呑川に合流していたのであろう。
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 橋を渡って慌てて対岸に行ってみると、奥沢からたどってきた道の合流点辺りでコンクリートの護岸が大きく口を開けていた。そこからわずかに水がしたたり落ちて、呑川の流れへ合流している。私は、奥沢弁天池からの流路をしかと見届けた。奥沢の弁天様が守っていた水の流れである。また一つ、荏原の水辺を知ることができた。
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by ebara_explorer | 2007-10-19 23:05 | 水辺

奥沢神社

 八幡宮めぐりを始めるにあたり作成した八幡神社リストを見直してみることにした。近代における合祀の歴史を考えると、八幡神社はもっとあるのではないかと思ったからである。これまでは「○○八幡神社」という名の付くものを対象としていたが、それ以外にも八幡神(誉田別命)が祀られている神社のある可能性が考えられる。

 その一つが、我が家から意外と近いところにあった。世田谷区奥沢の奥沢神社である。調べてみると、この神社の祭神は誉田別命であり、もともとは八幡神社と呼ばれていたことがわかった。

 以前から奥沢を地図で眺めていると、八幡小学校という名前の小学校が目に付いていた。この八幡はどこの八幡を指しているのか、ずっと考えていたが、それは旧奥沢村の鎮守でもある奥沢神社に他ならなかったわけである。

 さて、社伝によるとこの奥沢神社は、世田谷城主吉良氏の家臣大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として勧請したものであるという。土地の領主が勧請した八幡神社ということになる。しかも吉良氏の家臣であるから、ここは八幡宮めぐりの対象であると同時に、吉良氏の史跡であるとも言える。

 ところで、ここで言う奥沢城は、現在の九品仏浄真寺に比定されている。奥沢神社から北西の方向にある。また九品仏浄真寺の近くを九品仏川が流れており、地形的にはその谷底に近いところに城が位置していたことになる。

 一方こちらの奥沢神社は、城跡から九品仏川を下って自由が丘の街に出て、そこから坂を上ってきたところに位置する。谷の上にある社である。そういう地形を考えると、奥沢神社は城の南東の要所であったと考えられる。
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 奥沢神社の前は何度も通ったことがあったが、境内に入るのは初めてのことであった。鬱蒼とした木立の生い茂る境内であったが、思っていたより狭かった。鳥居をくぐって右手に本殿があった。ドッシリとした造りである。尾張の檜材を使って室町時代の様式を再現したものだそうで、昭和四十五年(1970)の再建だという。本殿へお参りをしようとすると、境内の掃き掃除をしていた女性が挨拶をしてきてくれた。慌てて挨拶を返した。
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 お参りなどを済ませ、入口の鳥居のところへ戻ると「大蛇お練り行事」についての説明があった。奥沢神社で有名なのは、鳥居に巻かれた藁の大蛇である。これは江戸時代の中頃に、奥沢で疫病がはやっていたとき、名主の枕元に八幡大神が現れ「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させるとよい」と告げたことから始まったという。さっそく行ったところ、疫病はたちまちに治ったそうだ。これが厄除けの大蛇として現在まで伝えられているということである。現在は毎年九月に新しい大蛇を作って奉納し、昨年の大蛇は鳥居にかけられるという。私が訪れたのは九月半ばであったので、ちょうど昨年の大蛇が鳥居にかけられたばかりであった。



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by ebara_explorer | 2007-10-17 21:08 | 八幡宮めぐり

八幡神社とは

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 荏原の歴史を知るための旅においてまず、一つの切り口として八幡宮めぐりを始めた。そして、当初挙げた三十の八幡神社のうち、約半数をすでに訪れた。いくつもの八幡神社をめぐってみると、源氏の何某に関わりのある由緒が出てきたり、中世の歴史が垣間見えたりして、なかなか面白い旅になっている。

 合わせてお稲荷様もめぐるようになり、荏原の神社に関してはいろいろと調べるようになった。

 いくつもの神社について由緒を調べていくうちに、一つの事実を知った。それは現存する神社が、明治時代になってだいぶ統廃合されたものであるということである。村にいくつもあった神社が一つを残して皆まとめられていて、その残った神社には境内社として、さまざまな神が合祀されている。実際、八幡神社に行っても、境内にはお稲荷様があったり、別の神様を祀った祠があったりする。

 そんな歴史を知ると、実は現在ある八幡神社以外にも、荏原にはもっと八幡神社があったのではないかと思う。昔あった八幡神社が、今はある神社に合祀され、小さな祠になってしまっているかもしれない。そう考えると、今ある八幡神社だけをめぐっても、八幡宮めぐりにならないのではないかという気もしてくる。

 それでも、今に残る八幡神社には、それなりに意味があるはずである。八幡宮めぐりを続けることで、きっと荏原の歴史が見えてくるに違いないと思っている。

 また、現在の神社の姿が、前近代のそれとは違っているということも「歴史」の一つとして認識しておきたいと思う。明治になって行われたことを、今更どうこう言っても仕方ない。そのことも「歴史」として知り、今ある神社の姿から、前近代の姿を少しでも探っていきたいと考えている。

 何にしても、今の私にとって、八幡宮めぐりやお稲荷様めぐりは面白い。一つ一つから見えてくるものは少ないが、いくつも巡っていくことで、見えてくるものはあるはずだ。

 荏原の歴史をめぐる旅は、続いていく。



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by ebara_explorer | 2007-10-10 23:05 | 八幡宮めぐり

勝利八幡神社

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 粕谷八幡神社、八幡山の八幡神社と、そう遠くない距離に二つの八幡神社があったが、この近くにはさらにもう一つ八幡神社があった。八幡山の八幡神社前の道を東にずっと進み、桜上水の交番の交差点に出ると、そばに三つ目の八幡様が鎮座している。この八幡神社には名前があって、勝利八幡神社という。

 名前の由来は、日露戦争にあたりこの八幡神社に戦勝祈願して出征した兵士が、無事に帰ってきたことから付いたという。名が付いたのは最近だが、歴史は古く、平安時代の万寿三年(1026)に京都の石清水八幡宮を勧請して創建されたという由緒が境内の案内板に書かれていた。

 鳥居の前に神社の名を記した大きな石碑が立っていたが、そこには「勝利八幡神社 山谷稲荷神社」と併記されていた。八幡宮めぐりとお稲荷様めぐりをしている私には、一挙両得のような社であるが、ちょっと違和感がある。境内にお稲荷様が合祀されているのだろう。
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 ここにも背丈の高い木が多く、西日を浴びた緑の葉が社殿を取り囲んでいた。正面奥が本殿で、その右手には、旧本殿が世田谷区の有形指定文化財として保存されていた。旧本殿は約1メートル四方の小さなもので、天明八年(1788)に建てられたものであることが棟札からわかるという。この旧本殿は、境内の中央に築山を築き、その上に覆屋を造り納められていたという。築山の上に小さな本殿があったというのは、異様な光景に思えた。

 旧本殿の奥には小さなお稲荷様が鎮座していた。これが山谷稲荷神社なのであろう。お稲荷様以外にも天祖神社の社殿もあって、狭いところに多くの神様が窮屈そうに鎮座している印象があった。

 古い由緒を感じさせる境内であったが、誰が何のために、千年近く昔にこの地へ八幡様を勧請したのだろうと思った。しかし、境内に答はなかった。本殿の脇に掛けられた絵馬が、強い風でカタコトと軽快に音を立てているのみであった。

 狭い地域に三つの八幡神社が存在するというのは興味深いことであった。しかも八幡山の八幡神社と勝利八幡神社はほぼ一本の道でつながっており、それが古道ではないかとも思わせた。勝利八幡神社へ向かう途中、東北沢の消防署近くに、草原の中に忽然と立つ地蔵様があり、草に埋もれそうな石碑も見えたからである。この地域については、もう少し調べてみないといけないと思った。

 後で調べてみると、この勝利八幡神社には別の由緒があった。その言い伝えによると、はじめは天から降ってきた「お伊勢さま」のお札を御神体として祀っていたが、戦国時代に武田氏と北条氏の合戦の後、小田原の武将鈴木氏一族がこの上北沢に移り住み、八幡社を祀るようになったという。平安時代に勧請されたという由緒とはだいぶ違うが、こちらの方が真実味はある。

 八幡神社のすぐ近くには、鈴木氏累代の菩提所となっている密蔵院という寺もあるようだ。鈴木氏は吉良氏の家人でもあったようなので、ここは吉良氏の史跡としても改めて訪れてみたいと思う。



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by ebara_explorer | 2007-10-06 22:32 | 八幡宮めぐり

八幡山の八幡神社

 京王線の「八幡山」という駅名をキーに八幡神社を探し、粕谷八幡神社を訪れたが、実はこの粕谷八幡神社は「八幡山」の「八幡」ではなかった。駅名の由来になっている八幡神社は、別にあった。

 粕谷八幡神社から環状八号線を渡って東へ進み、明大グラウンドの周囲をぐるっと回って行く。すると広い畑のあるところへ出た。現代の「荏原ばなれ」した風景であった。
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 この畑の近くに「八幡山」の八幡神社はあった。地名も八幡山である。ただ、駅から粕谷八幡神社を経由してここまで歩いてきても、高低差はあまりなく、山と呼ぶには違和感のある地形であった。どちらの社も、環状八号線そばを流れる烏山川沿いの低地にあるというイメージだ。

 境内は広くなく、小さな社であった。由緒書きを見ると、また「八幡社」とだけあって、名がない。こちらは八幡山の八幡神社とでも言えばよいのだろうか。 
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 由緒書きの書き出しも粕谷八幡神社とほぼ同じで「創立年月並びに古代由緒沿革等未詳なれど、古老口碑また地名等より古社と推定さる」とあって、やはり創建の由緒はわからないようであった。社殿は昭和四十七年に再建されたものとのことであった。小ぢんまりしていながらも立派な造りだ。 
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 境内には背丈の高い木が何本かあったが、鬱蒼と葉が生い茂っているわけではなく、明るい感じのする社であった。短い滞在時間であったが、その間に何人かがお参りをして行った。地域の小さな鎮守様という感じのする社であった。



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by ebara_explorer | 2007-10-05 19:28 | 八幡宮めぐり

粕谷八幡神社

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 八幡宮めぐりを始めたときから、京王線の八幡山駅には目を付けていた。近くに八幡神社があるに違いないと、駅周辺の地図を眺めた。視線を下へ持っていくと、はたして芦花公園という公園の一角に八幡神社を見つけた。

 この社は、地図で見ると「八幡神社」としか書いていない。「○○八幡神社」という名が冠されていなかった。現地に行ってみれば名前がわかるかもしれないと思って、期待を胸に出かけてみた。

 八幡山駅から環状八号線沿いを南へ歩いて行くと、右手に大きな公園が見えてきた。その一角に森閑とした木立があった。そこが「八幡神社」である。

 入口にある由緒書きを見てみると、そこにもやはり「八幡神社」としか書かれていなかった。しかし、ここの地名が粕谷であり、かつての柏谷村の鎮守にもなっていたことから、柏谷八幡神社と呼んでも良いのかもしれない。

 由緒書きでは、創立については不明であるとされていた。ただ、この地が鎌倉時代に粕谷三郎兼時の所領であったことから、粕谷氏によって八幡神が勧請されたのではないかとする説もある。

 境内には幹の太い古木があり、昼でも暗い感じであった。小さな本殿に参る。昭和三十四年に再建されたものだという。本殿前の狛犬はさらに新しく、平成十八年と刻まれていたから、わずか一年前に建てられたものだ。
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 薄暗い境内の奥には、小さな祠があった。この社に合祀されている神々の祠である。厳島姫命、宇迦御魂命、日本武命、於母陀琉命、疽神というそうそうたる神が祀られているが、実に小さなものであった。

 境内を後にしようとすると、由緒書きとは別の案内板を見つけた。それは「わかれの杉」について書かれたものである。この「わかれの杉」とは、近くに住んでいた作家の徳富蘆花が名付けたものだそうだ。徳富蘆花は、客人をいつもこの八幡神社の杉の下で見送っていたという。また徳富蘆花だけでなく、かつて粕谷の人たちが兵役に応召されたとき、八幡神社で武運長久を祈願し、郷土の人々と別れたという歴史もあるそうだ。八幡神社が、この粕谷の歴史を見守ってきたことを知り、感慨深いものがあった。



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by ebara_explorer | 2007-10-03 22:51 | 八幡宮めぐり