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庚申燈籠

 馬込の史跡めぐりを続けたい。

 万福寺の裏手に、神明社という小さな社があった。各地の天祖神社がかつて神明社とか神明宮と呼ばれていたことから考えると、ここの神明社も天祖神社と同じく伊勢の天照大神を祭神としているのだろう。

 社に隣接して幼稚園があった。というより、狭い境内が幼稚園の中にすっぽりと納まっている感じだ。そんな境内の一隅に、庚申塔があった。
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 この庚申塔は燈籠の形をしている。言い方を変えれば、石燈籠に庚申様が彫られている。中心となる青面金剛は、細い竿の部分に刻まれている。細い石の中で、青面金剛はちょっと窮屈そうでもあった。

 案内標によれば、この庚申燈籠は、享保三年(1718)に、馬込村久保谷の人々によって庚申供養のために建てられたものだという。燈籠型の庚申塔というのは類例が多いそうだが、ここのように青面金剛が彫られているのは珍しく、たいていは銘文や三猿だけを刻んだものなのだそうだ。

 境内は幼稚園のカラフルな柵で囲まれており、庚申燈籠もその中にあった。柵のすきまからそっとカメラを入れてズームで迫り、ようやく青面金剛の表情を捉えることができた。

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by ebara_explorer | 2007-11-30 19:19 | 庚申塔

旅立ちから半年

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 東京荏原歴史物語資料館と題し、荏原の旅を始めてからちょうど半年が経った。この間、身近な地域の歴史を見つめ直し、いろいろなところへ出かけた。小学校で郷土史を習ったとき以来再訪した場所もあった。近所なのに初めて訪れる場所もあった。多くの史跡を訪れ、様々な発見があった。そしてよく歩いたと思う。

 だが、都会の中に埋もれた歴史を掘り起こすのは、なかなか難しい。荏原は急速に宅地化が進んだ地域でもある。そこに残る歴史は少ない。また、出てきても江戸時代の二、三百年前までがせいぜいだ。私が興味を持っている中世まで行き着くことは、社寺の縁起にはあっても史跡という形ではほとんどない。だから、少し物足りない気もしている。

 それから、旧荏原郡を想定したフィールドが、範囲としては少し広すぎたかもしれないと後悔することもあった。広い地域を見るには、あちこち行かなければならない。そのため、訪れる史跡が点々として、各々がなかなか結び付いてこない。ばらばらになっているような気がする。ひとところに腰を据えることができていないように思う。

 それでも、フィールドは広い方が面白い。今度はどこへ行こうかと迷うほど、対象はたくさんある。それに今はまだばらばらな各史跡も、点を多く打ち込んでいくことによってそれぞれがつながり始め、線や面を描くようになっていくだろう。また、中には時代の古い史跡もいろいろ出てくるだろう。そうやって点を重ねていくうちに、荏原という地域の連綿とした歴史が浮かび上がってくるように思う。

 旅は、まだ始まったばかりだ。これからの道のりはまだまだ長く、そして楽しいものである。



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by ebara_explorer | 2007-11-26 19:26 | その他

日待供養塔

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 馬込の万福寺で最も目を引いたのは、本堂の右手前にあった日待供養塔である。宝篋印塔の形をした石塔だ。総高4メートルに及ぶという。江戸時代初期の寛永十五年(1638)に馬込村の人々が造立したという。台座に「馬込住人」としっかり刻まれているのが見えた。

 日待とは、近隣の者が特定の日に集まって、夜を徹し過ごす行事である。日の出を待つために夜明かしをするのであろう。庚申講と似ているが、日を待つというところに、太陽信仰のようなものも感じられる。ほかに月の出を待つ月待講というのもあるそうだ。供養塔の案内板によると、馬込では大正時代まで日待の習俗が行われていたそうだ。

 梵字の刻まれた宝篋印塔はどっしりとしていて形も良く、庚申塔のような素朴さは感じられなかった。しかし、これもまた庶民信仰の一つの形であると言える。



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by ebara_explorer | 2007-11-23 16:46 | 石造物

万福寺

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 大田区立郷土博物館を見学してから、周辺の馬込地区を少し歩くことにした。まず向かったのは古刹万福寺である。博物館の東側にある。

 古風な門構えの手前に、寺の縁起を書いた案内板があった。それによると、万福寺は鎌倉時代初期の建久年間(1190年~1199年)に、梶原景時が源頼朝の命によって梶原氏相伝の阿弥陀如来三尊像を本尊として大井丸山というところに建立したのが起源とされている。そして鎌倉時代後期の元応二年(1320)に火災に遭い、梶原景時の墓がある当地へ移され再建されたという。それから後の室町時代後期になって、寺が荒廃していたのを、鎌倉の禅僧明堂文竜が天正三年(1575)に再興し、密教寺院から曹洞宗に改めたそうだ。

 以上が案内板による縁起であるが、寺に関わりのあるとされる梶原氏は、鎌倉幕府の御家人の一族ではなく、戦国時代にこの地に拠を構えた後北条氏の家臣であるとする説もある。後世になって戦国時代の梶原氏と鎌倉時代の梶原氏を取り違えて伝わったということである。そうするとだいぶ話は変わってくるが、境内からは室町時代の年号を持つ板碑が出土しているということであるから、中世よりここに寺院のあったことは間違いないようである。

 案内板から門を挟んだ反対側には馬の銅像があった。磨墨(するすみ)という馬の銅像である。磨墨は源頼朝の名馬であったという。この馬込の産と伝えられるものだそうだ。その磨墨は、恩賞として梶原景時の子景季が賜ったとされている。頼朝の名馬といえばもう一頭は池月で、これは千束八幡神社を訪れたときにその言い伝えを目にしたものである。池月は頼朝が千束に陣を布いたときに得た馬とされている。その池月は佐々木高綱に与えられ、景季と高綱は宇治川の先陣争いを演じることになる。これらの話から、荏原は馬の名産地であったと言えるだろう。馬込という地名も「馬を込める(籠める)」から来ているといい、牧のあったことが窺える。
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 さて、それとともに興味深いのが戦国時代の梶原氏である。郷土博物館で入手した大田区教育委員会発行の冊子「大田の史跡めぐり<増補改訂版>」によると、戦国時代の馬込には、梶原氏が拠とする中世城郭があったという。範囲を見ると、この万福寺も城の中に入っていることになる。寺は城内の宗教施設であったのだろうか。

 城跡の範囲のうち、郷土博物館のある西側の部分がかつて根古屋とよばれ、城主の館跡と伝えられているそうだ。また、城の構えは周囲が急崖で、周辺の谷に沼を配し、敵の侵攻に備えたという。私は、ジメジメした中世馬込の様子を思い浮かべた。

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by ebara_explorer | 2007-11-22 22:40 | 寺院

大田区立郷土博物館特別展 川瀬巴水

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 大田区立郷土博物館で開催の特別展「川瀬巴水(かわせはすい) 旅情詩人と呼ばれた版画絵師 -没後50年-」を見学した。川瀬巴水は、大正から昭和にかけて版画の興隆をもたらした絵師である。彼は「旅情詩人」と呼ばれた通り、生涯を通じて日本中を旅し、各地の風景を版画にして残している。また、生涯の大半を現在の大田区内にあたる地域で過ごし、付近の風景を描いたことでも知られている。今回の没後五十年を期した展覧会は、そのゆかりの地で開かれている。

 私がこの川瀬巴水の作品に初めて出会ったのは、東京国立博物館の展示においてである。何かの特別展を見た後、ついでに平常展を見た折、ふと目に付いたのが彼の風景画であった。近代的な風景が、まるで安藤広重の浮世絵のような画風で描かれているところに新鮮さがあったためである。

 そのときに作者の名前も確認し、見知っていたが、しばらくの間忘れていた。それが二年前の年末に浅草を訪れたとき、雑貨屋で偶然「川瀬巴水カレンダー」を見つけたことで思い出された。以来、川瀬巴水の風景画の魅力に引き込まれ、画集を購入したり「川瀬巴水カレンダー」を毎年愛用したりしている。

 今回、その川瀬巴水の作品が身近な博物館で見られるとあって、非常に楽しみにして博物館を訪れた。

 この特別展では、前期・後期合わせて約三百点もの作品や資料を見ることができた。そのほとんどが風景の版画である。川瀬巴水の風景画を見ていくとまず、江戸時代の浮世絵と同じ画風ながら、近代の風景が描かれているところに楽しさというか、面白さを感じる。風景の中に、電線や自動車、自転車、近代建築などが出てきている。しかしそれらは、まったく違和感なく景色の中に溶け込んでいる。ともすれば美しい「風景」にとっては邪魔になりそうだが、そんなことはなく、全体が一つの風景として自然に見ることができてしまう。それが余計に面白さを引き立ててくれるように思う。

 それから、版画ならではの技法も巧みだ。特に目に付くのは光と影の表現だ。朝日のほの温かさ、日陰の涼やかさ、それらが画から伝わってくる。空の色の移り変わりも実にうまく表現している。また、同じ光を描いていても、日光と灯火では印象がまるで違っている。こうした表現が特に際立ってくるのが夕景の描写である。川瀬巴水の作品には夕景を描いたものが多く、夕焼けに染まる空や黄昏時の表現などは秀逸である。思わず画に引き込まれるものがある。それから、夜の帳の表現も優れている。一色ではない夜の闇が見事に表現されている。私などはカメラで夜景を撮るのにえらい苦労しているから、夜を巧く表現できることが羨ましく思えてきた。

 カメラといえば、写真でいうアングルの巧みさもある。構図が変わっている。風景の切り取り方がうまいなあと感心させられる。風景写真を撮るときの参考にもなると思う。

 表現技法の中ではほかに、水面の表し方が絶妙だ。水面のゆらゆらしたさま、ぬめっとしたさま、波立って激しく揺れるさまがよく表れている。また、ここでも光と影の表し方が巧いと思うのは、水面に映った建物の表現である。ゆらめく様子がリアルに描かれている。

 リアルに感じられるものとしては、雨粒や雪の降るさまも挙げられる。これらも写真のごとく、一瞬を切り取ったように描写されている。雪の景色の作品もまた多く、雪の重みや表面の柔らかさも、白単色なのによく伝わってくる。それから、鬼気迫るような雪空の灰色も印象的である。

 川瀬巴水は現在の大田区に住んだこともあって、荏原の風景も描いている。だからその作品は、私の荏原をめぐる旅に無縁ではないと言える。田園の中に松林のある池上、だたっ広い川原の向こうに深い森の見える矢口、大きな松の木に月がかかった馬込など、今では想像のつかないようなかつての荏原が生き生きと描かれている。そんな昔の荏原にも触れられる特別展であった。



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by ebara_explorer | 2007-11-21 22:53 | その他

目黒元不二

 浮世絵が好きである。と言っても、美人画ではない。風景画の方である。安藤広重の描く「東海道五十三次」などは子供の頃から良く眺めていた。見ているだけで当時の旅に出ているような気分になって、ワクワクしてくるものである。

 安藤広重の作品で、その「東海道五十三次」と双璧をなすのが「名所江戸百景」である。江戸時代の江戸の町における「名所」が描かれている。馴染みの多い場所が描かれているだけに、こちらも昔から良く眺めていて私のお気に入りだ。特に都内ではこの「名所江戸百景」の展覧会が開かれることも多く、それにも何度となく足を運んでいる。

 さて、この「名所江戸百景」に限らず、江戸という地名はどこを指しているのだろうか。江戸というのは江戸の「町」である。徳川時代に将軍が拠とした城下町のことを指すと言って良い。それは現在の東京23区より狭い範囲である。特に西側の大半は近郊の農村で、そこは江戸ではないと言える。だから、今私がフィールドとしている荏原も、そのほとんどが江戸ではないことになる。この旅は「江戸ではない東京の旅」だと思っている。もっとも、厳密に言うと、かつての荏原郡は現在の港区や千代田区の一部までを含んでおり、そこはまさに江戸の只中であるわけだが、私はあえてそこをフィールドとはしていない。

 だから「名所江戸百景」に描かれた場所も、ほとんどが私のフィールド外なのだが、何枚かは範囲内に入ってくる。わずかに江戸の町に手が届きそうな目黒の東側の部分がいくつかと、東海道沿いの名所である。東海道沿いも、品川宿を過ぎれば江戸と言ってよいかどうかわからないが、「名所江戸百景」には何箇所か含まれている。そんな範囲内の「名所江戸百景」の地をめぐってみようと思う。さすがに百もあると全部回るのは大変だし、それだけでブログの一テーマになりそうなものであるが、数えてみると範囲内にあるのは十一箇所だったので、この旅の新たなテーマとして取り上げるにはちょうど良い数であった。


 さて、最初に訪れたのは「目黒元不二」である。この「目黒元不二」は、富士信仰の様子を描いたものである。江戸時代に広まった富士信仰では、手軽に富士山の崇拝ができるよう、身近な場所に小さな山を築き、それを信仰の対象としていた。富士塚などと呼ばれるものである。

 目黒元不二は、東急東横線中目黒駅の近くにあったものだ。目切坂という急坂沿いに位置していた。
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 文化九年(1812)に上目黒村の富士講の人々が築いたもので、高さは12メートルもあったという。山には九十九折の道が設けられ、山頂には浅間神社の石宮が祀られていたそうだ。後の文政二年(1819)に新たな「富士」が中目黒に築かれたため、こちらは「元不二」と呼ばれるようになったとのことである。 

 富士講は明治になると衰え、明治十一年(1878)には「元不二」の鳥居や石宮が取り壊され、昭和十八年(1943)には講の碑石が他所へ移されてしまったという。現在、この「元不二」の跡には巨大なマンションが建てられている。鬱蒼とした目切坂沿いに建つ、一際鮮やかなマンションである。
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 「名所江戸百景」の画を見てみると、「元不二」の彼方には本物の富士山が良く見えている。西側に開けた目黒川の急な傾斜である。その跡に建つマンションからは今も富士山が望めるのだろうか。マンションの住人でもない私は、周囲からその建物を恨めしく眺めるしかなかった。



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by ebara_explorer | 2007-11-18 16:03 | 名所江戸百景

浅間神社からの富士山

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 小春日和の良く晴れた朝、以前に訪れた多摩川の浅間神社に行ってみた。前回は初夏の真っ白な空であったが、今回は良く晴れている。急な坂道と石段を上って行くと、展望台の眺めの真ん中には、富士の高嶺の白雪があった。

 山の姿はくっきりとしていたが、何となく都会の埃にまみれているようでもあった。昔はもっとはっきり、霊峰の姿が拝めたのではないかと思う。それも荏原のあちこちで望めたことであろう。そしてそういう眺めが、人々の暮らしに深く関わっていたのではないだろうか。

 やはり荏原の歴史を知るためには、富士信仰というのは重要なポイントであると思う。
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by ebara_explorer | 2007-11-15 23:28 | 富士信仰

上目黒天祖神社

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 天祖神社という名の神社は、地図で良く目にする。荏原にも、八幡神社ほどではないにせよ数がある。これはもともと、伊勢神宮の天照大神を祀っていて伊勢宮とか神明宮とか呼ばれていた神社が、明治になって改称させられたもののようだ。

 中目黒の文化財めぐりで訪れた上目黒の天祖神社もその一つで、もともと神社のある地は「伊勢森」と呼ばれており、また周辺は「伊勢脇」という地名であったそうだ。

 駒沢通りに面した社に着いて驚いたのが、参道に自動車が並べられていることである。参道が駐車場になっているためだ。郷土史家の先生によれば、神社が社殿の修理費用などの収入を得るために仕方のないことだそうだ。お祭りのときだけ、車は置かない契約になっているという。

 境内の奥にある小さな社殿は、昭和八年(1933)の創建であるという。社殿のすぐ左には、かつて姿の良い黒松があり、遠くからも目印になるほどで大きなものであったそうだ。
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 境内の裏手は公園になっていた。これは区が買い取って公園にしたもので、そのことによって神社周辺は木の多い地区になったのだという。また、公園のさらに裏手は崖になっており、昔は崖下が泉でホタルが飛び交ったりしていたと、郷土史家の先生は懐かしげに話していた。かつての荏原の風景が私にも浮かんできた。

 境内には他に、庚申塔が二基あった。ともに青面金剛と三猿が彫られたものだ。一方は宝永五年(1707)の年号、もう一方は享保元年(1716)の年号が刻まれており、享保の年号を持つ塔は道標にもなっていたという。道標の銘は「是より末町さき四辻、大道九品仏道、右せたかい道、左ふとう道」とあるそうだ。
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 この庚申塔はもともと、駒沢通りを少し西へ行ったところにあったと、郷土史家の先生はおっしゃっていた。例の庚申みちとの交差点辺りにあったそうだ。道をまっすぐ行けば九品仏、庚申みちを右に行けば世田谷、左に行けば目黒不動ということになり、先に伺った庚申みちの道筋と一致する。昭和十五年(1940)に、駒沢通りがオリンピックの準備のために拡張された折にここへ移ってきたという。それまで駒沢通りは、祐天寺の先で大きく左へそれていたそうだ。

 天祖神社の裏手を北に向かい、なだらかな坂を下りていくと目黒銀座商店街に出る。ここにある目黒銀座観音が文化財めぐり最後の見学地であった。目黒銀座観音は大正時代に勧請されたものである。かつてこの中目黒には、小規模の乳牛牧場や馬力運送業者が多かったため、馬頭観音を勧請したのだそうだ。商店街を門前町として発展させるという意図もあったという。

 この後、中目黒GTプラザまで歩いて、文化財めぐりは解散となった。独りで歩いていてはわからないことを、いろいろと知ることができた。この荏原をめぐる旅の一環として、機会があればまた参加してみたいと思う。

(写真は後日再訪して撮影したものである)



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by ebara_explorer | 2007-11-14 23:09 | 天祖神社

中目黒八幡神社補足

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 中目黒の文化財めぐりで、次に訪れたのは中目黒八幡神社である。ここはすでに私の荏原の旅で訪れたことがある神社だ。ただ、私の調べたところではこの八幡神社創建の由緒については不明であった。そこで、もしかしたらこの文化財めぐりで新しい知識が得られるかもしれないと、楽しみにしてきたところでもある。

 しかし、郷土史家の先生も、創建について詳しいことはわからないとおっしゃっていた。残念であった。ただし、八幡神社に関していくつか補足すべきことを聞いたので、この機会にまとめておきたい。

 まず、この神社を訪れたときの印象として、境内が明るいということがある。ほとんどの大きな木の枝が切られてしまっているからである。郷土史家の先生によると、木の枝はこの春に切られたものであるという。境内の南側の崖が崩れそうになっているため、その負担を減らそうと切ったのだそうだ。だから、それまでは境内がもっと鬱蒼としていたとのことであった。
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 また、この中目黒八幡神社では例大祭のときに行われる十二座の神楽が有名である。しかし現在は、毎年の例大祭では十二座すべてを行っていないという。十二座の神楽を奏するには夜通しかかるそうだが、現在は時間が午後二時から九時までに限られており、毎年演目を変えながら十二座のうちいくつかを行っているという。これはお茶を給仕していただいた宮司の家の方から伺ったものである。

 その他に、神社の前を通る道について、興味深いことを郷土史家の先生から伺った。神社の前の道は「新寺道」という古道だそうだ。先に見た長泉院(新寺)の前を通る道だったという。この道を南に行ったところにある鏑木家は、いくつもの村の総代を兼ねる総総代の家であったそうだ。また道の周囲は、目黒川の水を利用した水田だったそうで、目黒では貴重な水田地帯であったとのことだった。

 文化財めぐりで再訪することにより、中目黒八幡神社のことをより良く知ることができた。


(写真は後日再訪して撮影したものである)



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by ebara_explorer | 2007-11-07 20:52 | 八幡宮めぐり

祐天寺

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 祐天寺は、東急東横線の駅名としてあまりにも良く知っているが、実際に寺を訪れたことは今まで一度もなかった。寺は駅の東、駒沢通りに面したところにある。

 去る10月21日、目黒区教育委員会の主催する「区内文化財めぐり」に参加した。この日のコースは中目黒地域をめぐるもので、そのスタート地点が祐天寺であった。初めて訪れる祐天寺は落ち着いた印象で、仁王門やその他の堂宇がどっしりと構えていた。

 文化財めぐりは、教育委員会の方の同行のもと、地元の郷土史家の先生の案内によって進められた。集合後、まず祐天寺の境内を案内していただいた。

 祐天寺は、江戸時代中期の享保三年(1718)に、祐天上人を開山として、その弟子の祐海上人が創建した寺である。祐天上人は非常に優秀な僧だったそうで、東大寺の再建や鎌倉大仏の中興に貢献しているという。「南無阿弥陀仏」の名号を何枚も書いて配布し、資金を集めたそうだ。それで庶民の評判も高く、やがては徳川家も庇護するようになったという。現存する仁王門や阿弥陀堂は、徳川五代将軍綱吉の養女竹姫寄進のものとのことであった。
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 仁王門には運慶作と伝える持国天・増長天があるとのことだったが、さすがに運慶作というのはにわかに信じがたかった。また、門の軒下には十二支の動物が彫られているのを先生が教えてくださった。
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 阿弥陀堂といえば中世建築でよく目にしているが、ここの阿弥陀堂も中世のものと同様、方三間の四面堂で形はよかった。額に書かれた「阿弥陀堂」という立派な文字は祐海上人の筆になるという。

 次に見たのは地蔵堂である。堂の前に小さな門があり、その天井には火消しのまといが彫られていた。
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 まといは堂内の天井にも描かれているという。祐天寺は江戸の町火消しと関わりが深いそうだ。というのも、火消しの組織の原型を作ったのが祐天上人とされているからである。祐天上人が増上寺の大僧上にもなったが、その頃増上寺は火災が大変多かったそうだ。そこで祐天上人は、寺内に火消しの組織を確立し、防火を行った。これが町奉行大岡忠相によって江戸の町にも応用され、町火消しができたという。そういう縁があるので、今でも正月の出初式のときには、消防団がお参りに来るのだと、郷土史家の先生はおっしゃっていた。

 地蔵堂の裏に回ると「南無阿弥陀仏」の名号の刻まれた大きな碑があった。百万遍供養塔というそうだ。寄進をした七百名もの名前が刻まれているという。祐天上人が亡くなって百年ほどして建てられたそうだが、それでもなお多くの帰依を集めたことがわかる。
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 その傍らには海難供養碑があった。海で遭難した人たちを供養する碑で、白子組という木綿問屋と、灘目という灘の酒樽問屋の二つが並んでいる。海から離れた目黒のこの地に海難供養の碑があることには違和感を覚えるが、郷土史家の先生によると、供養碑の発起人の一人が祐天寺を振興する人だったのではないかとのことであった。
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 地蔵堂から参道に戻り、一番奥の本堂を見た。明治三十一年(1898)の再建だという。再建の際は、境内に植えられていた杉の木を使用したそうだ。この杉の木は、祐海上人が万一のときのために植えさせたいたものだという。先見の明がある方だと、郷土史家の先生は話していた。
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 この後、隣接する墓地を見学した。入口を入ってすぐのところに、お経を納めた塔が建っていたが、その前に小さな穴の開いた石があった。先生によると、この穴をくぐればはしかが軽くなると言い伝えられており、先生も子供の頃何度もくぐらされたという。確かに子供でなければくぐれないほどの大きさである。

 最後に祐天上人の墓を見て、それから裏手の細い道を経て長泉院というお寺へ向かった。ここも祐天寺と同じく浄土宗の寺であるが、祐天寺より五十年後に建てられたので「新寺」と呼ばれているそうだ。また、寺の前の道は古道で、庚申塔が沿道に多いところから「庚申みち」とも呼ばれている。ここは私の荏原の旅で是非とも訪れたいと思っているところである。長泉院へ行く途中の道端にも庚申塔があって、私は一人でワクワクしていた。

 祐天寺も長泉院も、私が居住している目黒区内にありながら初めて訪れた寺であったが、非常に興味深いものであった。

(写真は後日再訪して撮影したものである)



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by ebara_explorer | 2007-11-04 19:10 | 寺院