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山王厳島神社

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 馬込から埃っぽい環七通りを渡って山王に入り、住宅地の中を進むと、池のある公園が忽然と現れる。大田区山王四丁目二十三番地である。

 園内の色付き始めたイチョウの葉の下には、細い白木でできた鳥居がある。池の真ん中には小さな社殿もある。厳島神社である。弁天様を祀る水の神様だ。ここも荏原の湧水池の一つである。
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 さっそく社殿に参ろうとすると、参道の途中には頑丈な鉄格子があり、社殿に近付くことすらできなくなっていた。コンクリートの土台を金網で囲った弁天島を、池の周囲から眺めるしかなかった。
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 社殿を取り囲む池には噴水があるものの、水は何となく淀んでいた。水中に生き物も見当たらず、小さな石の上にカメがいるだけであった。
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 仕方なく池の周囲を歩いてみると、裏手に花清水公園という別の公園があった。この一角はきれいに整備され、名の通り花もいろいろと植えられていた。敷地の一番奥に「御神水 弁天池源泉」と書かれた札が立てられている。そこには犬小屋のような覆屋にすっぽり納まった、小さな小さな祠が祀られていた。この祠のあるところから水が湧いているのだろう。祠に祀られているのも弁天様だと思われる。池にある弁天様の奥宮といったところだろうか。
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 祠からは小さな流路が続いている。水は一見淀んでいるように見えたが、段差のあるところに流れが確認でき、少しずつ水が湧き出ているようにも見えた。しかしわずかな水の量である。
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 池へ戻って周囲を見渡したが、この池からさらに流路が続いていそうにはなかった。だが、かつてはどこかへ流れ出ていたのではないかと思う。ここから南東方向には内川という流れがある。そこへ繋がっていたことも考えられる。そしてその流れはきっと、辺りの農地や生活を潤す大事な大事な水であったに違いない。また、今は厳重に囲まれ隔離されている弁天様も、その時代には人々の身近にあって厚く厚く信仰されていたのではないかと思う。



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by ebara_explorer | 2007-12-29 12:19 | 水辺

馬込八幡神社

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 馬込八幡神社は、木の鳥居のある古風な八幡神社であった。鳥居をくぐると、荏原の八幡神社にしては珍しく門があった。その先の参道には古めかしい石燈籠や狛犬が並んでいた。狛犬には慶応元年(1865)の銘が看て取れた。
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 朱塗りの社殿はまだきれいで、新しいようであった。お参りをしてから境内に由緒書きを探したが、そういった案内板は何もなかった。目黒区や世田谷区だと、寺や神社のいわれそのものを記した案内板が立っているのだが、大田区教育委員会は文化財の案内板しか立てていない。それが少し残念である。

 社殿の左手奥には、祠がいくつも並んでいた。合祀された神々であろう。ちょうど八幡さまの大きな社殿に隠れるようにして朱の鳥居があり、お稲荷様もいらっしゃった。子育稲荷とあった。祠の中でも一番小さなものであった。
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 境内を出ると、すぐとなりに寺があった。神社とまさに軒を接している。かつては八幡神社の別当寺であっただろう。門前には庚申塔があった。三体あったが、一体は欠損がひどかった。残りの二体のうち、中央の大きな像には延宝五年(1677)の、右の像には寛政元年(1789)の年号が読み取れた。中央の像で面白かったのは、上部の左右に刻まれている日と月が、青面金剛の手のひらに載っていることである。このような青面金剛は初めて見た。
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 参道を進んで寺の境内に行ってみた。長遠寺という真言宗の寺であった。どっしりとした本堂がある。十一面観世音菩薩像の案内板があった。上大崎の光雲寺にあったものが、明治になって当寺へ移されたのだという。これだけでは、寺の由緒はわからなかった。

 本堂の裏手は墓地だが、西の空が広く開けていて、気持ちの良いところだった。また、参道の脇には古めかしい石仏がいくつも並んでいた。塀を一枚隔てれば八幡神社の社殿の軒下である。それから、門のすぐ脇に立派な枝垂桜があった、春にもう一度訪れてみたくなる寺であった。

 後で調べてみると、馬込八幡神社は、社伝によれば馬込松原の里に住む源氏ゆかりの土豪、渡辺対馬守正久が建久五年(1194)に男山八幡宮を勧請したのに始まるということであった。かなり古い由緒をもつ八幡神社であった。こうした由緒の書かれた案内板を、境内の隅にでも立ててくれるとありがたいものである。



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by ebara_explorer | 2007-12-28 11:35 | 八幡宮めぐり

富士講燈籠

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 馬込は起伏の激しい土地だ。歩いていると頻繁に上ったり下ったりせねばならない。そんな馬込の道端に、立派な石燈籠が建っていた。教育委員会の案内標によれば「富士講燈籠」とのことであった。江戸時代後期の文政七年(1824)に、馬込村を中心とする富士講の人々によって建てられた常夜燈だという。よく見ると、燈籠には「富士大仙元菩薩」と刻まれている。この「仙元」は浅間神社の「浅間」に通じるのだろう。また、台石には富士の山容が象ってあった。
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 燈籠から、馬込に富士講のあったことが知れる。かつてこの馬込でも、高台から富士山を望むことができたのであろうか。

 燈籠の台石には、願主・世話人をはじめとする約二百人の人名が刻まれているそうだ。世話人には万福寺の名もあるという。万福寺は禅宗であるが、禅宗と富士信仰は関わりが深いのであろうか。

 かつて講の富士登山の折には、講中の人々が近くの北野神社に参籠してから、この燈籠の前で祈願をし、出発していったと伝えられているそうだ。講の信仰に禅宗の万福寺が関わっていたり北野神社が関わっていたりするのは面白い。その北野神社は燈籠から少し北へ行ったところにあったが、あいにく境内の造園工事中で入ることはできなかった。

 なお、燈籠の台石の銘文から、この富士講燈籠は品川と池上に至る道に道標として建てられたことがわかるという。荏原に残る道標に、この品川と池上という地名は良く出てくる。この地名が、これから荏原の古道を探っていくときのキーワードになりそうだ。



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by ebara_explorer | 2007-12-08 14:58 | 富士信仰