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若林稲荷神社

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 太子堂八幡神社の社前から烏山川の緑道を西へ少しさかのぼると、稲荷橋跡がある。そのすぐ北側に紅い鳥居が見える。これが若林稲荷神社である。由緒としては江戸時代中期の明和六年(1769)に社へ土地が奉納されたという記録があり、その頃もしくはそれ以前からあったことが知られている。

 紅い鳥居をくぐり、狐様のお出迎えを受け、朱塗りの本殿に参る。どこから見ても稲荷神社であるが、本殿の額を見ると「稲荷神社 天祖神社」と書かれていて、ちょっと驚いた。

 これは、もともと代田にあった神明社を合祀したものだという。神明社は常林寺という寺の内宮だったそうだが、明治十年(1877)に常林寺が焼失してしまったため、この稲荷神社に合祀されたということである。だからここには、稲荷神社の倉稲魂命と天祖神社(神明社)の天照大神が祀られていることになる。お稲荷様めぐりと天祖神社めぐりをしている私からすれば一挙両得ということになるが、一緒に祀られている神様は、どのように感じているのだろうと思った。
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 本殿は新しくてきれいなものであった。これは昭和五十九年(1984)に再建されたものであるという。以前の本殿は昭和二十年(1945)三月十日の空襲で焼失してしまったのだそうだ。その後、他の神社からお宮を買い取り移設していたが、ようやく二十年程前に再建されたということである。



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by ebara_explorer | 2008-03-26 21:28 | お稲荷様

太子堂八幡神社

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 駒留八幡神社から、環七通りが世田谷通りと交差する若林を過ぎ北東へ向かい、烏山川の流れを過ぎると、八幡神社がもう一つある。太子堂八幡神社という。太子堂はこの辺りの地名にもなっているが、これは円泉寺という寺に聖徳太子が祀られているところから来ている。その円泉寺は、かつて太子堂八幡神社の別当寺でもあったようだ。

 住宅街の中にある太子堂八幡神社は、環七通りからも世田谷通りからも離れており、静かなところであった。また、境内の木々は背が高く、歴史を感じさせる杜であった。

 本殿は、駒留八幡神社のものよりも、さらにどっしりとした構えであるように思われた。
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 そして本殿脇にはやはり、稲荷神社が祀られていた。
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 さて、この太子堂八幡神社の由緒であるが、本殿脇に立派な案内板があった。それによると、先の円泉寺開基の縁起には、文禄年間(1592~96)に創祀されたとあるという。しかし、それよりはるか以前の平安時代、源頼義・義家父子が安倍氏征討のため陸奥へ向かう途中にこの地の八幡神社に武運を祈ったという伝えもあるそうだ。つまり、そのときにはすでに八幡神がこの地に勧請され、祀られていたということである。

 ところで、源頼義・義家父子に関わる言い伝えは、別の八幡神社にも出てきた。世田谷区尾山台の宇佐神社と、大田区東六郷の六郷神社である。いずれも安倍氏征討に向かう源頼義・義家父子が武運を祈ったというものである。

 両社にこの世田谷区太子堂の太子堂八幡神社という三点を地図上に思い浮かべると、いったい源頼義・義家父子の行軍はどのような道を辿ったのか、皆目見当が付かなくなる。本当に源頼義・義家父子は、それぞれの場所を通ったのだろうか。

 ただ、太子堂八幡神社の言い伝えには続きがある。この太子堂五丁目付近の旧太子堂上本村一二一~一二二番地を土器塚と呼ぶそうだが、そこは源頼義・義家父子が行軍の折、軍勢に命じて休憩を取りここで酒宴を張った後、土器(かわらけ)を埋めたことに由来するという。また、土器塚に続く塚を同勢山と呼ぶそうだが、これは同勢を憩わせた名残であるという。

 そのような言い伝えを読むと、いかにもここを源頼義・義家父子の軍が通り過ぎたように感じられる。しかも、神社西側の道は鎌倉道と呼ばれているそうだ。確かにその道を北へ辿って行くと現在でも通りの名が「鎌倉通り」となっていて、下北沢方面へ通じている。これは鎌倉時代になってから、鎌倉街道の一つとなっていたことがその由来と思われるが、鎌倉時代以前から通じていたとも考えられる。とにかく古い道であることは確かだ。

 源頼義・義家父子がここを通ったという確証は持てないが、その頃よりここに古道があり神様が祀られていたというところまでは、大いに考えられることである。



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by ebara_explorer | 2008-03-18 15:31 | 八幡宮めぐり

駒留八幡神社

 八幡宮めぐりとして、荏原に見つけた八幡神社のうち、すでに半分以上の二十社あまりをめぐった。今年のうちには、残りの八幡神社も訪れたいと思う。そこで残った社のうち、まずは比較的家から近いところへ行ってみることにした。

 環七通りが玉川通りと交差する上馬から北へ向かうと、通りは下り坂となる。下りきったところが駒留陸橋である。ここでは蛇崩川という小さな川を跨いでいる。そこから若林へ向かう途中の左手に八幡神社がある。駒留八幡神社という。
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 境内は環七通りから少し入ったところにあるが、鬱蒼とした杜の中に入っても環七通りを通る車の音が気になる。

 この神社の由緒は、鎌倉時代にまでさかのぼる。祀られている神像の背面にある銅板に、北条左近太郎入道成願という人物が徳治三年(1308)に奉納した旨が刻まれているからである。また境内からは、同年にやはり北条左近太郎入道成願が奉納したことを記す経筒が発見されているという。これは江戸時代に当地を知行した旗本大久保忠誠が、天和二年(1682)に社殿の寄進と石段の修理をした際に見つかったものだという。 

 神像や経筒の銘があるということは、その歴史が鎌倉時代までさかのぼることは確かなことのように思う。こういう歴史が身近にあると、わくわくしている。

 ところでこの北条左近太郎入道成願は、鎌倉時代に当地を領していた人物とされている。言い伝えによると、北条左近太郎入道成願が八幡宮を勧請しようとしていたとき夢に八幡神が現れ「私を祀るところは愛馬に聞け」と言われた。そこで翌朝愛馬に乗って自由に歩き回らせたところ、当地で立ち止まったのでここへ社を建てたとという。そこから「駒留」という名が来ているそうだ。

 大きな松の木を手前に配した本殿に参る。八幡神社というと朱塗りされている社殿が多いが、ここの本殿は素木であった。それがかえって社殿全体をどっしりとしたものに感じさせていた。
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 本殿の左奥へ行くと、この八幡神社にもやはり稲荷神社があった。
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 また、八幡神社の祭神には天照大神も含まれていて、天祖神社が合祀されているようである。

 さらにその奥には、弁財天が祀られていた。
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 これは常盤弁財天といい、吉良頼康の側室であった常盤姫を祀ったものである。常盤姫は奥沢城主大平出羽守の娘で、頼康の寵愛を受け、頼康の子も身籠っていたが、他の側室から讒言をされ、追われる身となってしまった。そして捕らえられ、自害して果てたのがこの駒留の辺りだという。常盤姫は逃げる途中で身の潔白を訴えるため、奥沢城の両親に向けた手紙を白鷺の足に付け託したそうだ。しかし、白鷺は途中で力尽き、手紙は間に合わなかったという。その白鷺が葬られた地に、白い花が咲くようになったという。これは鷺草と呼ばれ、今でも奥沢城のあった九品仏近くで見ることができる。そしてこの話は、鷺草伝説としても有名である。荏原
の昔話の一つである。

 そんな鷺草伝説の舞台でもある駒留八幡神社の弁財天であるが、それを取り囲む池は干上がっており、ちょっと残念であった。この弁財天は戦後まもなくまでは、神社境内前にあった池の中島に祀られていたという。今は神社前に環七通りに面した公園があるが、その辺りに池はあったのだろうか。

 また、常盤姫のお腹に身籠っていた頼康の子は、頼康によって八幡神社に一社相殿として祀られたそうだ。このため駒留八幡神社は、またの名を若宮八幡神社と呼ばれている。

 駒留八幡神社は、中世の歴史が詰まった神社であった。



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by ebara_explorer | 2008-03-08 16:20 | 八幡宮めぐり

稗田神社

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 梅屋敷公園から蒲田駅へ歩いて向かう途中、たまたま神社を見つけた。大田区蒲田三丁目二番にある稗田神社である。思わず境内に入り案内板を読んでみると、この社は平安時代の「延喜式」にも記されている古社であるという。また社伝によれば、和銅二年(709)に僧行基が天照、八幡、春日の三神体を創り、当社に安置し、後に日蓮が村人の請を入れて開眼したとあるそうだ。なかなか古い由緒のある神社だ。そして、社伝の中に日蓮の登場するところが興味深い。ここから池上の本門寺はそう遠くない。この辺りでは神社にも日蓮宗の影響が強い。

 さらに案内板には「近来は応神天皇をまつる八幡社で」あったと記されていた。これは当社が八幡神社であると見て良いのではないだろうか。私の荏原の八幡宮リストにまた一社追加されたことになる。しかも、その中でもかなり古い由緒を持つ社である。
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 真新しい本殿に参ってから右奥へ行くと、小さな祠が三つ並んでいた。それぞれ「薬祖神社」「稲荷神社」「三十番神社」と鳥居に名が掲げられていた。お決まりの「稲荷神社」はさておき、あとの二つは何か興味深い名前である。案内板に、明治になって近くの小祠を境内に合祀したとあったから、もとは近隣に存在した小さな社であったのだろう。
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 境内には向かって左手に白梅、右手に紅梅が咲き誇っていた。その咲きぶりは、梅屋敷公園のものよりも見事であった。日に照らされた梅の花々が暖かな春の訪れを感じさせる境内であった。
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(稗田神社の「稗」は正しくは草冠に「稗」と書くが、インターネットの地図など  で見ると「稗」の字が充てられているので、それに従った。)



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by ebara_explorer | 2008-03-02 14:36 | 八幡宮めぐり