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八景坂鎧掛松

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 大森駅の西口を出ると、目の前が池上通りである。この通りは江戸時代には池上道と言われていた。品川から本門寺のある池上まで通じる古道である。かつては東海道の一部であったとも言われている。

 駅前の池上通りは坂道になっているが、この坂を八景坂という。昔は相当な急坂で、雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研(やげん)のようになったため、薬研坂と呼ばれていたそうだが、坂上の眺望が良いため名所として知られるようになり、また江戸時代にこの辺りの八景を選んだことから八景坂と呼ばれるようになったようだ。

 坂上の眺望は安藤広重の『名所江戸百景』にも描かれている。題して「八景坂鎧掛松」である。荏原にある『名所江戸百景』の一つだ。鎧掛松というのは、八景坂の坂上にあった大きな松のことで、源義家が東征の際に鎧を掛けたことからその名があるという。荏原にある八幡神社創建の由来に度々名前の出てくる源義家だが、この松の名の由来にも登場してきた。

 安藤広重の描いた「八景坂鎧掛松」を見ると、形が良く背の高い松の木を手前に配し、背景には、近くに海辺の東海道を見下ろし、遠く海の向こうには房総の山々を望むという画になっている。松のある坂上には茶店らしきものがある。松越しに開ける海の眺望が印象的だ。

 現代の八景坂は、大森駅前のごみごみした繁華街で、眺望も何もあったものではない。歩道には自転車があふれ歩きづらい。また、坂はそれほど急ではなく、薬研坂と呼ばれた面影もない。

 そんな中、坂の途中にある大森駅西口の向かいに、こんもりとした杜がある。天祖神社である。源義家が戦勝祈願をした社とも伝えられている。木々が鬱蒼としてひっそりとした境内は「八景坂鎧掛松」の描かれた時代の雰囲気を多少なりとも残しているように思われた。
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 神社の急な石段の途中に、句碑がある。碑には「鎌倉の よより明るし のちの月 景山」という句が刻まれている。
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 また、裏側には八景坂からの眺望である「笠島夜雨・鮫洲晴嵐・大森暮雪・羽田帰帆・六郷夕照・大蘭落雁・袖浦秋月・池上晩鐘」の八景の名が書かれているという。

 往時、急坂を上り切ったときに現れる眺望は、坂を懸命に上って来た人たちにとって疲れを癒すものであっただろう。現代の東京には、そのように眺望が開けるところはないように思う。もっとも、高いビルや塔の展望台に上れば話は別だが、そういうときはたいていエレベータで上がってしまうので、自分の足で上がるという苦労はない。八景坂を上り切ったときの、胸の空くような開放感を味わってみたかったものである。



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by ebara_explorer | 2008-10-28 17:01 | 名所江戸百景

子安八幡神社

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 浦守稲荷神社から産業道路に戻ってさらに南下すると、呑川に行き当たる。この川の少し上流に八幡神社が鎮座している。子安八幡神社という。同名の神社は呑川のさらに上流の大田区仲池上にもあった。子安には安産や子の成長を願うような意味があるのだろうか。
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 こちらの八幡神社は、社伝によれば室町時代の応永年間(1394-1428)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建されたもので、旧下袋村の村社であるという。また江戸時代になると、下袋村と麹屋村を領した代官小泉氏の氏神ともなったそうだ。小泉氏は、初代次太夫吉次が六郷用水を開削したことで知られている。

 境内の南側には古い鳥居が残っている。これは安永三年(1774)に、この神社の氏子たちが、小泉氏六代目藤三郎包教の武運長久を祈って奉納したもので、大田区内最古の明神型鳥居であるという。背は低いが、どっしりとした構えに歴史を感じさせる石鳥居であった。
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 境内にはほかに、末広稲荷というお稲荷様が祀られていた。

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by ebara_explorer | 2008-10-15 20:04 | 八幡宮めぐり

浦守稲荷神社

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 三輪厳島神社から産業道路に沿って南へ下り、森ヶ崎へ向かうバス通りを西へ向かうと、前の浦という交差点に出る。現在ではここから海岸までまだ少し距離があるが、かつてはこの辺りが海岸であったことをうかがわせる地名だ。この前の浦の近くを羽田道という旧道が通っている。東海道から羽田弁天社を結ぶ道筋であったという。その途中にあるのが、浦守稲荷神社である。
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 面白い名前のお稲荷様だと思った。浦守という名から「浦を守る」という意味合いが浮かんでくる。穴守稲荷神社のいわれに通じるところがあるように思われる。境内の由緒書きによれば、今からおよそ三百年前に創建されたというから江戸時代の中期の頃のことであろう。当時、この辺りは海辺の茅原で、周辺に農業や漁業に営むわずかな人々が住んでいたという。それらの人々が稲荷を祀ったのが起源とされている。その後宝暦年中(1751-1764)になって、前の浦の開拓に熱心であった伊東藤兵衛大人の努力により、神社の設備も整ったそうだ。

 明治になると神徳が都内まで広まったそうで、また境内の一隅に白蛇弁天が出現したので、土地の人々はもとより京浜間の信仰する者が「弥栄弁天講」を作り、年々団体で参拝するようになったということである。稲荷信仰と弁天信仰が密接に関わっていると言える神社ではないだろうか。境内の一隅には、紅い鳥居のお稲荷様と対照的な、白い鳥居を持つ白蛇神祠が祀られていた。

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by ebara_explorer | 2008-10-02 18:07 | お稲荷様