薬師堂富士講碑

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 大森駅前の池上通りを蒲田方面へ向かい、大田区立山王会館の信号を右手へ少し入ったところに薬師堂というお堂がある。ここはもと桃雲寺というお寺のあったところだが、今は廃寺となり、薬師堂と若干の境内地が残るだけとなっている。

 その薬師堂のすぐ近くに、大きな富士講碑が建っている。天保三年(1832)に新井宿村の富士講中が、食行身禄(伊藤伊兵衛)という人の没後百年を記念して建てたものであるという。食行身禄は、富士講中興の祖といわれる人物である。新井宿村の富士講も指導していたのであろうか。

 また、碑の左側には「天下泰平正穀成就村中安全」と刻まれており、村内安全を祈願したものであることがわかる。

 碑の中央には「仙元大菩薩」と大きく書かれ、その上に雲のたなびく富士山が描かれている。また「仙元大菩薩」と書かれた左右に行衣を着た猿が描かれているのも面白い。それから、長方形の碑は亀の背中に載る形となっている。この亀には耳がある。それが不思議であった。

 碑はとても大きく、目立つものである。このような碑が新井宿村の中にあったということは、村内に富士講という信仰が深く根付いていたことを示すものではないだろうか。



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# by ebara_explorer | 2008-11-17 15:04 | 富士信仰

徳持神社

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 大田区池上に徳持神社という社がある。境内の由緒書きによれば、創建は鎌倉時代の建長年間(1249~1255)だそうで、宇佐八幡宮の分霊を勧請したものであり、御旗山八幡宮と称されていたという。つまり、元を糺せばこの神社は八幡神社であり、私の荏原の八幡宮めぐりの中に入れて良いものだと思う。それにしても御旗山八幡宮とは格好良い名前だ。鎌倉時代だから、土地の武士が勧請したものであろうか。鎌倉時代以降だと、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請する例が多いように思うが、本家の宇佐八幡宮から直接勧請してきたというのは珍しい。

 なお、元は現在の池上七丁目辺りに鎮座していたそうだが、明治三十九年(1906)に池上競馬場が作られることとなったとき、現在地に移転することとなり、その後近くの稲荷神社を合祀したことから徳持神社と称するようになったという。

 しかし、朱塗りの立派な社殿を見てみると、他の八幡神社でよく見るような様式であった。実際、境内の由緒書きによれば、社殿は八幡造という様式とのことであった。
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 また、境内の隅には徳持田中稲荷神社というお稲荷様が鎮座していた。これは徳持神社の末社であり、移転に当たって合祀されたものとはまた別のお稲荷様であるようだった。

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# by ebara_explorer | 2008-11-07 10:22 | 八幡宮めぐり

八景坂鎧掛松

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 大森駅の西口を出ると、目の前が池上通りである。この通りは江戸時代には池上道と言われていた。品川から本門寺のある池上まで通じる古道である。かつては東海道の一部であったとも言われている。

 駅前の池上通りは坂道になっているが、この坂を八景坂という。昔は相当な急坂で、雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研(やげん)のようになったため、薬研坂と呼ばれていたそうだが、坂上の眺望が良いため名所として知られるようになり、また江戸時代にこの辺りの八景を選んだことから八景坂と呼ばれるようになったようだ。

 坂上の眺望は安藤広重の『名所江戸百景』にも描かれている。題して「八景坂鎧掛松」である。荏原にある『名所江戸百景』の一つだ。鎧掛松というのは、八景坂の坂上にあった大きな松のことで、源義家が東征の際に鎧を掛けたことからその名があるという。荏原にある八幡神社創建の由来に度々名前の出てくる源義家だが、この松の名の由来にも登場してきた。

 安藤広重の描いた「八景坂鎧掛松」を見ると、形が良く背の高い松の木を手前に配し、背景には、近くに海辺の東海道を見下ろし、遠く海の向こうには房総の山々を望むという画になっている。松のある坂上には茶店らしきものがある。松越しに開ける海の眺望が印象的だ。

 現代の八景坂は、大森駅前のごみごみした繁華街で、眺望も何もあったものではない。歩道には自転車があふれ歩きづらい。また、坂はそれほど急ではなく、薬研坂と呼ばれた面影もない。

 そんな中、坂の途中にある大森駅西口の向かいに、こんもりとした杜がある。天祖神社である。源義家が戦勝祈願をした社とも伝えられている。木々が鬱蒼としてひっそりとした境内は「八景坂鎧掛松」の描かれた時代の雰囲気を多少なりとも残しているように思われた。
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 神社の急な石段の途中に、句碑がある。碑には「鎌倉の よより明るし のちの月 景山」という句が刻まれている。
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 また、裏側には八景坂からの眺望である「笠島夜雨・鮫洲晴嵐・大森暮雪・羽田帰帆・六郷夕照・大蘭落雁・袖浦秋月・池上晩鐘」の八景の名が書かれているという。

 往時、急坂を上り切ったときに現れる眺望は、坂を懸命に上って来た人たちにとって疲れを癒すものであっただろう。現代の東京には、そのように眺望が開けるところはないように思う。もっとも、高いビルや塔の展望台に上れば話は別だが、そういうときはたいていエレベータで上がってしまうので、自分の足で上がるという苦労はない。八景坂を上り切ったときの、胸の空くような開放感を味わってみたかったものである。



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# by ebara_explorer | 2008-10-28 17:01 | 名所江戸百景