子安八幡神社

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 浦守稲荷神社から産業道路に戻ってさらに南下すると、呑川に行き当たる。この川の少し上流に八幡神社が鎮座している。子安八幡神社という。同名の神社は呑川のさらに上流の大田区仲池上にもあった。子安には安産や子の成長を願うような意味があるのだろうか。
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 こちらの八幡神社は、社伝によれば室町時代の応永年間(1394-1428)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建されたもので、旧下袋村の村社であるという。また江戸時代になると、下袋村と麹屋村を領した代官小泉氏の氏神ともなったそうだ。小泉氏は、初代次太夫吉次が六郷用水を開削したことで知られている。

 境内の南側には古い鳥居が残っている。これは安永三年(1774)に、この神社の氏子たちが、小泉氏六代目藤三郎包教の武運長久を祈って奉納したもので、大田区内最古の明神型鳥居であるという。背は低いが、どっしりとした構えに歴史を感じさせる石鳥居であった。
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 境内にはほかに、末広稲荷というお稲荷様が祀られていた。

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# by ebara_explorer | 2008-10-15 20:04 | 八幡宮めぐり

浦守稲荷神社

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 三輪厳島神社から産業道路に沿って南へ下り、森ヶ崎へ向かうバス通りを西へ向かうと、前の浦という交差点に出る。現在ではここから海岸までまだ少し距離があるが、かつてはこの辺りが海岸であったことをうかがわせる地名だ。この前の浦の近くを羽田道という旧道が通っている。東海道から羽田弁天社を結ぶ道筋であったという。その途中にあるのが、浦守稲荷神社である。
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 面白い名前のお稲荷様だと思った。浦守という名から「浦を守る」という意味合いが浮かんでくる。穴守稲荷神社のいわれに通じるところがあるように思われる。境内の由緒書きによれば、今からおよそ三百年前に創建されたというから江戸時代の中期の頃のことであろう。当時、この辺りは海辺の茅原で、周辺に農業や漁業に営むわずかな人々が住んでいたという。それらの人々が稲荷を祀ったのが起源とされている。その後宝暦年中(1751-1764)になって、前の浦の開拓に熱心であった伊東藤兵衛大人の努力により、神社の設備も整ったそうだ。

 明治になると神徳が都内まで広まったそうで、また境内の一隅に白蛇弁天が出現したので、土地の人々はもとより京浜間の信仰する者が「弥栄弁天講」を作り、年々団体で参拝するようになったということである。稲荷信仰と弁天信仰が密接に関わっていると言える神社ではないだろうか。境内の一隅には、紅い鳥居のお稲荷様と対照的な、白い鳥居を持つ白蛇神祠が祀られていた。

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# by ebara_explorer | 2008-10-02 18:07 | お稲荷様

三輪厳島神社

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 大森中の八幡神社から商店街の通りへ戻り、さらに東へ向かうと産業道路に行き当たる。その殺伐とした大通りに面して三輪厳島神社がある。三輪神社と厳島神社が合祀されたものであろう。近くには別に三輪神社という社もある。

 境内のほとんどは駐車場になっており、隅の方に遠慮がちに社殿があった。
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 社殿近くの由緒書きを見てみると、創立の起源は治承四年(1180)にさかのぼるという。源義経一行が多摩川の渡しを過ぎたときのことというから、平泉から富士川の源頼朝の陣へ駆けつける際のことであろう。義経一行の舟が風に押し流され不安に思っていたところ、波の向こうに小高い杜が見えたという。これは神のおわすところだと思いそこへ向かって海上の安穏を祈ると、不思議と波風が治まったそうだ。そこで義経が霊を感じ、この杜を訪ねてみると、社の縁に白蛇が現れたという。これは神の使いで、きっと厳島大神が自分たちの運を守ってくれたのだということで、森を拓き神殿を修理し、また舟をつけたところに注連竹を建てたということである。これがこの厳島神社の起源であるとのことだ。荏原の社の由緒に源頼義・義家が登場することは多いが、義経が出てくるのは珍しい。

 それ以来、里の人が海面守護の神として毎年水神を祀っていたところ、ある年注連竹に黒い苔が付着していたそうだ。人々が試しにそれをなめてみると味があり、さらに干して食べてみると風味が殊に良いということで、翌年小枝を多く立てておくとまた苔が付着したので、次第にその苔を干して製造する者が多くなっていったという。これが有名な大森海苔の起源であり、鎌倉の将軍家、さらに時代が下って江戸の将軍家にも献上されるようになったとのことである。

 これらの由緒から、この厳島神社は単に海上の守護神としてだけではなく、大森の海苔の製造業者からの信仰も厚かったことが窺える。実際、社殿前の燈籠の台座には発起人として「川端海苔製造業者」と刻まれていた。

 また、社殿の脇には銭洗弁財天が祀られていた。
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 さらに、この神社の境内からは板碑が発掘されているという。それらの板碑のうち、十六基が近くの密乗院というお寺に保存されているが、残念ながら非公開であった(下の写真は密乗院である)。
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 尚、保存されているもののうち年代銘のあるものは延慶三年(1310)から文明六年(1474)までであるというから、義経の話や海苔の伝承の件と相まって厳島神社が中世から厚く信仰されていたことが窺える。荏原における古くからの水辺の信仰を見ることができた。



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# by ebara_explorer | 2008-09-21 17:52 | 水辺