三輪厳島神社境内のほとんどは駐車場になっており、隅の方に遠慮がちに社殿があった。 社殿近くの由緒書きを見てみると、創立の起源は治承四年(1180)にさかのぼるという。源義経一行が多摩川の渡しを過ぎたときのことというから、平泉から富士川の源頼朝の陣へ駆けつける際のことであろう。義経一行の舟が風に押し流され不安に思っていたところ、波の向こうに小高い杜が見えたという。これは神のおわすところだと思いそこへ向かって海上の安穏を祈ると、不思議と波風が治まったそうだ。そこで義経が霊を感じ、この杜を訪ねてみると、社の縁に白蛇が現れたという。これは神の使いで、きっと厳島大神が自分たちの運を守ってくれたのだということで、森を拓き神殿を修理し、また舟をつけたところに注連竹を建てたということである。これがこの厳島神社の起源であるとのことだ。荏原の社の由緒に源頼義・義家が登場することは多いが、義経が出てくるのは珍しい。 それ以来、里の人が海面守護の神として毎年水神を祀っていたところ、ある年注連竹に黒い苔が付着していたそうだ。人々が試しにそれをなめてみると味があり、さらに干して食べてみると風味が殊に良いということで、翌年小枝を多く立てておくとまた苔が付着したので、次第にその苔を干して製造する者が多くなっていったという。これが有名な大森海苔の起源であり、鎌倉の将軍家、さらに時代が下って江戸の将軍家にも献上されるようになったとのことである。 これらの由緒から、この厳島神社は単に海上の守護神としてだけではなく、大森の海苔の製造業者からの信仰も厚かったことが窺える。実際、社殿前の燈籠の台座には発起人として「川端海苔製造業者」と刻まれていた。 また、社殿の脇には銭洗弁財天が祀られていた。 さらに、この神社の境内からは板碑が発掘されているという。それらの板碑のうち、十六基が近くの密乗院というお寺に保存されているが、残念ながら非公開であった(下の写真は密乗院である)。 尚、保存されているもののうち年代銘のあるものは延慶三年(1310)から文明六年(1474)までであるというから、義経の話や海苔の伝承の件と相まって厳島神社が中世から厚く信仰されていたことが窺える。荏原における古くからの水辺の信仰を見ることができた。
by ebara_explorer
| 2008-09-21 17:52
| 水辺
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